
11月9日~10日で兵庫県神戸市と宝塚市にある聖天尊をお祀りしている寺院を巡拝してきました。
そろそろコロナ第8波かといわれている中でしたが、前々より計画していたこともあり、いつもの聖天
参拝会4名で下記の寺院を参拝してきました。
1.長田聖天 弘聖寺(こうしょうじ) |
神戸市長田区 |
2.大本山 清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ) |
宝塚市 |
3.大本山 中山寺(なかやまでら) |
宝塚市 |
4.宝塚聖天 了徳密院 |
宝塚市 |
5.天台宗 妙光院 |
神戸市中央区 |
※参拝順 |
先ず1番目にお参りした長田聖天は寺歴50有余年の寺で開山森岡弘信尼が霊感により感得した聖天さまを自宅にお祀りしたのが、その初めであり、その後、お堂を建て生駒聖天宝山寺の松本実道貫主(当時)より聖天法の伝授を受け正式に西大寺の末寺として開山された由にあります。その後、阪神、淡路大震災で羅災し大きな被害を受けましたが、現在は見事に復興、寺域も拡充され聖天信仰に精進されております。
当日は第2世住職森岡信道師にご案内頂き、お話も伺うことができました。その中で「今まで長い間、浴油をされてきて特別なものを感得したことはありますか?」との問いに「そういうことは全くありません」と答えられました。その自然な言葉と態度に謙虚さが滲(にじ)み整備された伽藍と境内の清潔さを象徴していました。
次にお参りした清荒神清澄寺は西暦896年、宇多天皇の創意による勅願寺として創建された真言三宝宗大本山です。特に一大荒神信仰の場として、火の神~荒神さまとして信仰を集め家内安全、商売繁昌など現世利益を求めて多くの人で賑っています。
本尊は大日如来。大変、立派な天堂(拝殿)には三宝荒神王、歓喜天、十一面観音が祀られており、棟(むね)つづきの後堂には浴油堂があり、ここで毎日、三宝荒神、歓喜天尊の「合行如法浴油供」が厳修されています。
3番目にお参りしたのは大本山紫雲山 中山寺です。この寺は聖徳太子の建立による我国最初の観音霊場であり、西国三十三ヵ所二十四番札所です。
寺歴によると豊臣秀吉公が当山で祈祷したところ秀賴公を授かり、又、明治天皇の生母である中山一位局が当山の「鐘の緒」を受けて明治天皇を平産されてから「明治天皇勅願所」となり、「子育て、安産の寺」として全国にその名を轟(とどろ)かせています。
まず、本堂に向かう参道両脇に5ヶ寺の塔頭寺院があり、その中の1つに成就院があります。ここは聖天尊を本尊とする寺であり皆で法楽を捧げました。その後、紫雲閣にて中山寺派管長、大本山中山寺長老であります今井浄圓猊下(げいか)に面会、お茶の接待を受け、何と管長直々(じきじき)に山内をご案内頂くこととなりました。
これは今回同行の大御堂寺住職 水野真圓師が若かりし頃、東寺の「御修法(みしほ)」で承仕(じょうじ)の役を共にお勤めした間柄、いわば法友であったということで、今回、特別にご配慮を賜わったものです。
私は中山寺にお参りするのは今回で2度目ですが、境内約2万坪に建つ多くの伽藍は全て整備されており、本堂正面階段脇にあるエスカレーターを始めエレベーター等、高令時代にいち早く対応されている諸施設は誠にすばらしく、皆、感嘆の一言につきました。又、平成29年に再建の五重塔(青龍塔)はその名のとおり深い青色(群青色)に塗られ、大日如来をお祀りする朱色の多宝塔(大願塔)と共に仏法を象徴的に荘厳しています。
ご案内頂いた後、管長猊下に丁重に御礼申しあげ、我々は次の参拝寺である宝塚聖天へと向かい、参拝、法楽をして参りました。その後、神戸市へ戻り、天台宗 妙光院を参拝、巨大な馬頭観音像にご真言をお唱えしながら聖天堂にて法楽を捧げました。
いつもながらの1泊2日の参拝旅行ですが、今回は何と言っても水野師のお陰で大本山中山寺派管長、直々によるご案内で諸堂参拝ができたこと、これが大きな"みやげ"となりました。
諸堂伽藍の荘厳さと今井管長猊下の優しくおおらかなお人柄に魅力を感じつつ。
面会してお話を頂きました長田聖天森岡信道ご住職、そして今井猊下のお二人に深甚なる感謝と今回、いろいろお取り計らい頂きました水野僧正に御礼を申しあげます。
合掌
2022年11月25日
去る10月18日、念願であった奈良生駒山宝山寺に参拝してきました。前にここで書いたとおり、2年前に新里不動堂にお祀(まつ)りした本尊不動明王三尊は宝山寺本尊不動明王三尊をお手本に造られたもので、前々よりご挨拶に伺わねばと思っておりましたがコロナ禍でなかなか行けず今回やっとお参りすることができました。
当日朝6時に家を出て京都で近鉄線に乗り換え、11時頃、到着しました。先(ま)ず本堂にて本尊不動明王に法楽、「これより多くの衆生(しゅじょう)を導き給(たま)わん」ことを祈念し仏像造顕のご報告を申しあげました。
その後、聖天堂にて法楽を捧(ささ)げ、今回の不動堂建立事業が円滑に進めることができたことに御礼を申しあげました。
今回で5回目、9年ぶりの参拝でしたが2年前よりの懸案であった参拝を果たすことができ心のつかえが取れ、ほっとした気持ちになりました。
今月28日の月例護摩供にてご本尊に改めて参拝のご報告を申しあげるつもりです。
合掌
2022年10月22日
7月27日、不動堂に真言掛板(かけいた)、山門に寺号掛板、そして本堂向拝(ごはい・こうはいとも言う)に六角菱灯籠が奉納されました。
真言掛板はお不動さまのご真言を板に書いたものですが、毎月28日のお護摩に参列されている方々からの奉納です。
また、山門前に掛けられた寺号板も同じ方々からの奉納によるものです。 山門が一段と格調高い雰囲気になりました。
そして、本堂向拝に新しく吊(つ)り下(さ)げられた六角菱灯籠は匿名(とくめい)による寄付によるものです。 お盆や夕刻等に本堂をお参りする時、外正面を明るく照らしてくれるものです。 又、このデザインは総本山智積院の金堂回廊に吊られている灯籠を参考に作られたものです。
それぞれの品に奉納された方々の仏さまへの思いが込められております。 ここに深甚(しんじん)なる感謝を申しあげ報告とさせていただきます。
合掌
2022年07月28日
33歳の時より聖天供を始め今年で39年、来年の5月で丁度、40年を数えます。
改めて振り返ると「随分、長い間、聖天さまを拝んできたんだなぁ」という感慨と共に、拝み始めた頃と聖天さまに対する気持ちは殆(ほと)んど変ってないように思えます。本堂建立の祈願から始って様々なお願い(ほとんどが寺の
興隆に関わるもの)をして、その全ての願いを叶(かな)えさせて頂きました。誠に有難い感謝の極(きわ)みでありますが、一番のご利益は70歳を過ぎてもこうして浴油供の行法を続けていけることだと思います。
聖天さまは人を選ぶといわれていますが、こんな私でも少しは聖天さまのお眼鏡(めがね)に敵(かな)ったのかなといつも自問しています。
初雪の不動堂 2年前にこれも天尊のお導きにより境内を拡張し、そこに不動堂を建立いたしました。毎月28日の護摩供(正月は三ケ日護摩供を厳修)と月の初めより7座の聖天供を併修して行っていますが、少しでも密教僧としてやるべきことをして行きたいと念じています。
今、真言の寺で常に行法をしている寺は余り聞きません。成田山や川崎大師等の本山級の寺では毎日、護摩修法を始め住職や職員が何がしかの行法を修していることと思いますが、一般の寺では壇の礼盤(らいはん)に座るのは施餓鬼の時くらいかと。あとは朝のお勤めで理趣経を読む位かなと思います。
「しかるに今、肝心の行法を怠(おこた)っていて、ただ読経ばかりでは、お大師様が御指摘されたように薬の効能や処方をのべるだけに終り、それでいわゆるお勤めがすんだように思っているのは真言行者として迂闊(うかつ)も甚(はなは)だしいと言わねばならぬ。しかるにまた行法するのには、あたかも期間を限って練行する加行者や、求聞持法、八千枚護摩法の行者などのように斎戒(さいかい)淋浴(もくよく)せねばならず、肉食妻帯の凡愚(ぼんぐ)の生活ではとても不可能で、隨って悉地(しつち)も成ぜぬのではないかという疑念に迷うが、行法とは決してそんなに人間離れをしなければ行ぜられぬものではない。煩悩具足のまま直(ただ)ちに仏光に照らされる秘法こそ真言密教の行法なのである。.......要は平生に行法を行うことである。行法は真にそのままで仏と感応し道交する秘法である。」と。(「加持の実践」 三井英光著作集より抜粋)
引用が長くなりましたが、真言密教の骨髄は神秘体験に尽きるといわれており、それを体験するには「三密瑜伽(ゆが)法」、即ち行法をもってすることが肝要であります。
私は聖天さまに巡り合い、聖天供を通して仏道を歩ませていただいているつもりです。それぞれ縁のある仏さまの行法(一尊法)を修し三摩地(さんまじ)の境界を目指(めざ)していく僧侶(特に若い方達)が増(ふ)えていくことを期待するものです。
〈閑話休題〉
年末は掃除に追われます。本堂、聖天堂、不動堂、閻魔堂の掃除。年齢の割には、まだある程度、体の自由が効くので暮れには日程を分けて区切りをつけながら掃除していきます。
考えてみると掃除は昔から云われているように自分の心を清めることが第一番目の目的であり、修法する準備として大切なことです。
聖天壇
掃除が終ると次は供物の準備です。正月中はお店が休業になるので日持ちする供物をまとめ買いします。護摩供はそれ程、特別な供物はないのですが、聖天供はお団、大根,和酒、甘味の菓子等、お供えするものが厳しく決められています。特に大根は正月中、店が休みになると入手できなくなることもあるので仲々大変です。
ここ数年の間、農家をしている総代さんが浴油の前日、採(と)りたての大根を2本ずつ毎回、届けてくれるので大変、感謝しています。毎回、新鮮な大根をお供えできるので聖天さまもさぞ喜んでおられることと思います。
甘味のお供物も時間のある時は必ず自分で店に行き、美味しそうなものを自分の目で見て買っています。「今日はお口に合いそうなものが買えた」(笑)と。
思うに聖天さまのような天部の神さまは素直な心で、偽(いつわ)りのない正直な心で接することが大事であると思います。
掃除でもお供物の調整でも行法の一部であると思いながら準備をする。行法の時間だけでなく、その全てを見て頂いていると思っています。
これからも一年でも長く聖天さまにお仕えし、浴油の誠を示していけたら幸せであると思う今年の正月でした。コロナの終息と皆さまの幸せを心より願いながら。
合掌
2022年01月13日
緊急事態宣言解除を受けて、参拝する機会を見つけていましたが、12月3日、日帰りで長野善光寺を参拝してきました。
前々より善光寺には聖天さまがお祀りされていると聞いており、ネットで調べてみると大勧進に聖天堂がありました。ある本に、その昔、善光寺の経営がよくなかった時、聖天さまに祈願をしてよくなったということが書かれています。
当日は早朝6時に浴油供を済ませ、いつもの聖天尊法友2名、信者1名と共に10時、大宮駅より新幹線に乗車、1時間にて長野駅着。少し早い時間ではありましたが門前のそばで有名な「藤木庵」にて昼食。大変おいしいおそばを頂きました。
善光寺は本来ならば今年は「前立本尊御開帳」の年でしたが、コロナ禍により延期され来年、令和4年4月3日~6月29日の開催となりました。昼食後、本堂参拝を済ませ大勧進の門をくぐり諸堂を見て回りましたが、聖天堂は見当りません。一度、門の外へ出て確認すると大勧進の左側の駐車場の奥まった高い所に聖天堂はありました。
参拝したい旨(むね)を告(つ)げると若いお坊さんが戸を開けてくれました。我々はお堂の中に入り皆で法楽を捧げることができました。聖天堂の中は向って左側に聖天壇、右側に護摩壇が置かれています。
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そばや藤木庵 | 善光寺山門 | 本堂 | |
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大勧進 | 聖天堂 | 聖天壇 | 護摩壇 |
正直な所、大伽藍の善光寺の聖天堂ということで “勝手に豪華絢爛(ごうかけんらん)たる荘厳(しょうごん)を想像” していましたので、お堂を始め質素な佇(たたず)まいに少し驚きを隠せませんでした。又、聖天壇には清酒、お団、大根等の供物がお供えされておりましたが、我々の見る限りでは多羅(たら)等の浴油に使う仏具は見あたりませんでした。どのようなご供養をされているのか知りたいところではありましたが、聞く術(すべ)もなく山門を後に致しました。
レンタカーにて善光寺を出発し、次に参拝したのは真言宗智山派長谷寺(住職 岡澤慶澄師)です。
日帰りのため時間的余裕があまりなく長野駅に近い長谷寺に参拝させて頂きました。この寺には2年前に家内と
二人でお参りさせていただきましたので(長野の古刹参拝)、詳しくは書きませんが、岡澤住職ご夫妻の寺を護(まも)り、仏道を求める熱い思いにはいつも敬服しております。帰り道に思わず口々に「この寺は生きているね」という言葉がでました。
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長谷寺観音堂 | 観音堂より山門を見下ろす | 庫裡~釈迦涅槃図 |
そして最後にお参りしたのは長谷寺より車で約20分の曹洞宗典厩寺(てんきゅうじ)です。こちらの寺は川中島の戦いで討ち死にした武田信玄公の弟典厩(武田)信繁のお墓があり、境内には川中島合戦記念館も建てられ様々な画や武具が
展示されています。
また川中島合戦後300年を記念し戦没者の菩提を弔って造られた身丈2丈(約6m)の大閻魔大王像があり、
圧巻です。
元は真言宗であったということで聖天さまが祀られており、ご住職よりご案内を頂き本堂にお祀りされている聖天さまを参拝させて頂くことができました。
長谷寺、典厩寺のご住職には細やかなご案内とご接待を頂き心より御礼申しあげます。
合掌
2021年12月13日
令和3年11月24日、弘法大師像が完成し不動堂にお祀(まつ)りされました。前に報告しましたように、
全体のお姿は薄彩色(うすさいしき)ですがお顔と胸、手は木肌(きはだ)のままです。彫刻の鑿(のみ)の跡も分るような自然の風合(ふうあ)いが感じられます。また、お顔を始め全体のお姿も私が思い描いていたお大師さまの雰囲気が感じられる出来(でき)映(ば)えとなりました。
高さはご本尊不動明王三尊に合わせ、御椅子の下に増板をはかせて調節しました。
12月21日のご縁日に開眼する予定です。
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不動堂正面に掛板(かけいた)がかけられました。「令和不動尊 護摩修法所」と記しました。
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合掌
2021年11月30日
現在、制作中のお大師様の坐像に納める胎内礼ができました。後世の人にこのお像がいつ、どんな目的で、誰が作ったのかを残すための記録札で、お像の体内に入れるので「胎内札(たいないふだ)」と呼ばれています。この札を開けて見るのは百年後か、いつになるのか分りませんが、造立した精神はいつまでも残っていくことを願っています。
そして、このお大師様のお像が完成した時には、開眼し修法をしなければなりませんが、その修法次第である「弘法大師法」を手に入れることができました。いつも事相、特に修法関係でご教授いただいている愛知県知多郡美浜町、大御堂寺住職 水野真圓僧正に弘法大師法の次第をお尋ねしたところ、丁度、一冊、次第が手元にあるということでご恵送頂きました。
この次第は「水野師が昭和61年に高野山の真別処※で修行した時、同期の兄弟弟子が修法されてた次第であり、この方が亡くなる前に法友である水野師に諸次第全てを寄贈された中の一冊である。」という内容の添書きを頂きました。
大変、貴重な次第を私が頂戴してもよいのか確認しましたが、この次第を使って修法してもらえれば幸いである、といわれ、有難く使わせて頂くことと致しました。感謝。合掌。この次第によって胎内札に記したように「虚空(こくう)尽(つ)き涅槃(ねはん)尽き衆生(しゅじょう)尽きなば我が願いも尽きなむ」というお大師様の広大無辺なるご誓願の思いを少しでも、このお像に込めることができればと思います。
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お大師様胎内札 表 | お大師様胎内札 裏 | 弘法大師法次第 |
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弘法大師法次第 |
※ 高野山真別処
元々は俊乗房重源が高野山蓮花谷南方の山中に開いた別処で、重源七別所の一つ。現在は円通律寺と称し、真言宗の修行道場となっている。(高野山から峠をひとつ越えたところにある。)正式名称は「高野山事相講伝所円通律寺」といい、高野山で、唯一の女人禁制、一般の者は立入ることはできない。
合掌
2021年08月18日
山門脇の築地塀が長年の風雨により表面がボロボロになったので、この度、お盆を前にきれいにして皆さんをお迎えしようと思い修理、再塗装工事をいたしました。
近隣のお寺でも当山のように長い塀はあまり見受けませんが、山門を挟(はさ)んで両側に続く塀はお寺の威厳を感じさせてくれます。
又、本来、山門、塀は「結界(けっかい)」を表し俗界と聖域を区画するものであり、これより中には不浄なものが入ることができないことを表しているのです。
因(ちな)みに神社の鳥居も結界を表し、その内が聖域(神域)であることを意味していますが、その起源はインドでそれが日本に伝わり神社の象徴となったものとする説があります。
山門を入る時、出る時にはご本尊様に一礼をして頂きたいと思います。
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修復中 | |
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修復完了 |
合掌
2021年07月01日
去る3月21日に制作を依頼したお大師さまの坐像が6月17日、発注先の京都より彫刻状況確認のため
当山に運ばれました。
本来ならば、こちらから仏師の工房に出向くところなのですがコロナ禍ということで仏師と田平製作所の計らいで遠路、京都より車で運んできてくれたのです。
前述のとおり高野山にある萬日大師をモデルとして制作しているものですが、その出来映えはなかなかのものであると思いました。
制作に当ってお願いしたことは、お大師さまの五鈷杵を持つ右手は金剛拳、そして念珠を持つ左手は胎拳に、又、五鈷杵は御請来型を想定し、かなり大きめにするということでした。
これより彫刻は仕上げに入り、その後は彩色、今回は薄彩色とし眼は玉眼ではなく木眼(彫眼)となります。
また身丈は2尺、念珠は御影念珠(赤瑪瑙(めのう)と水晶)尺2寸、御椅子(御椅子の上は半畳ではなく布状の敷物、茵(しとね)とする)、水瓶(すいびょう)、沓(くつ)(木履(ぼくり))付きとします。以上が主なる仕様となります。
全てが完成するのは遅くとも年内という予定であり、お大師さまの御誕生1,250年(令和5年)記念には完成が少し早いのですが、お祝い事は早めがよろしいと理解し、このまま進めていきたいと思っています。
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合掌
2021年06月20日
この度、宗祖弘法大師 空海上人のお像(坐像)を新しく造り、新里不動堂にお祀りするべく発願いたしました。
来る令和5年(2023年)が弘法大師ご誕生1,250年に正当(せいとう)するため、その報恩謝徳記念として造立したいと思った訳ですが、考えてみると、この不動堂を建立しようと思った当初より本尊に不動明王、脇士(わきじ)に愛染明王、そしてお大師さまをお祀りしたいと漠然(ばくぜん)と思っていました。(本堂には弘法、興教両大師がお祀りされています。)その意味を深く考えることもなく。
今、不動堂が完成し本尊不動明王、愛染明王をお祀りし、更にお大師さまをここにお祀りするべきか改めて考えていた時、「弘法大師御影(みえ)の秘密」(山路天酬著)を読む機会に恵まれました。 この本は「お大師さまの御影」を解説したもので、その中から抜粋すると「右手の金剛拳(こんごうけん)にて構える五鈷杵は五鈷金剛杵といい、金剛界曼荼羅を表し、煩悩を摧破(さいは)する智徳の「愛染明王」(第1右手の持物)を意味し、また、左手の胎拳(たいけん)にて構える念珠は大悲を蔵する理徳の「不動明王」(左手の羂索(けんさく))を意味するのです。
そして「金剛界愛染明王」と「胎蔵不動明王」は理智不二(りちふに)、不二一如であり、その不二一如の尊体を表示したものが「如意宝珠(にょいほうしゅ)」であり、お大師さまの頭頂と後頭部の突起によって象徴されるのです。
つまり、お大師さまは、右手の五鈷杵と左手の念珠によって、ご自身が如意宝珠であると観想した上で、あのような構えをされたのです。」と。 又、「このことはお大師さまの御影を語る上で秘奥のお話となります。 つまり、御影に秘められたご誓願そのものに関わるものであることとお心得ください。」と前置きされています。
私は今までお大師さまの御影にこのような意味があると考えたことはなく、この本によってお大師さまと不動明王、愛染明王との関係を知ることができました。(皆さんもお大師さまに興味のある方は一読するとよいと思います。)
これでやっと漠然(ばくぜん)とした思いが裏付けられた気持になり、何故、不動堂にお大師さまをお祀りしたいのかが分った気持ちになりました。 いわばお祀りすべく導かれているのだと感じました。 不動、愛染、弘法は一如なのです。
そこで次に仏師に彫刻を依頼する訳ですが、仏師にお大師さまの尊容(そんよう)を理解してもらい、私自身の思いのお大師さまをお造り申しあげたいと思いました。 そのためにはモデルが必要となります。 お大師さまのお姿は「御影」は多くありますが、古いお像はそれ程、多くはないようです。 東寺、法隆寺,六波羅蜜寺など。 その基本は「真如(しんにょ)様式」※1 が殆んどですが、お顔や体つき、法衣、五鈷杵や念珠についても同じように見えても、それぞれ細部は異なっています。
そこで色々、調べた結果、高野山にある「萬日大師(まんにちだいし)」※2 のお姿をモデルとすべく仏師にお願いいたしました。 きりっとした端正で凛々(りり)しいお顔立ちの中にも優しい表情が素晴らしいお姿です。
また、尊像の大きさについても検討しました。本尊不動明王が聊(いささ)か大きいので、これに調和する大きさ。あまり大きすぎず小さすぎず。
これらを検討した結果、3月21日(お大師さまのご縁日)に京都にある田平製造所に正式に依頼することといたしました。
これより約1年をかけて制作することになります。途中の経過はここでまた報告できたらと思います。
※1 真如様式とは「お大師さまの弟子である真如親王(799~865年、平城天皇の第三皇子 高丘親王、お大師さまの十大弟子の一人)が描かれたために、このように呼ばれております。また高野山にて描かれたお大師さまの最初の御影でありますゆえ、これを「高野様式」とも呼んで高野山御影堂にお祀りされ、正真のお大師さまとして崇拝されているのです。」~「弘法大師御影の秘密」より
※2 萬日大師とは「高野山に伝わる不思議な話。ある行者がこの弘法大師像を三十年以上、毎日礼拝していた。その一万日目、行者の夢に弘法大師が現れ、優しく顔を向けて「萬日の功、真実なり」と語りかけられた。目覚めた行者が大師像を見ると、なんと弘法大師像が首を左に向けておられた。以来、この大師像は一万日目の万日から「萬日大師」と呼ばれるようになった」ということです。
今も高野山に伝存する。最近、高野山開創1,200年を記念し、木造のこの大師像を陶により実物大で複製(レプリカ)したものがある。
合掌
2021年04月01日
11月19日 午前10時より埼玉県加須市にある延命寺(住職河北秀真師)に於て、聖天尊開眼法要が厳修されました。
河北師は縁あって2年前に聖天浴油供伝授会に参加し、それ以来聖天さまを自坊にお祀りすべく、本堂を改修し、聖天壇も自身で作り着々と準備を進めようやくこの日を迎えることができました。
たまたまと言うか、大分、前から私の寺の聖天堂に開眼をしないで安置してあった聖天尊が1体あり、今回、こちらの聖天さまを延命寺で勧請することになりました。 それに伴い、十一面観音さまも新しく作り、この日に合せて開眼をいたしました。
当日は、日頃より聖天尊法友としてお付き合い頂いている2ヶ寺のご住職、そして聖天信者1名も隨喜として開眼法要に参列して頂き、賑やかに法要を修することができました。
願う所は仏法興隆、密宗興隆、当山隆昌、そして心願が天尊に届いた折には衆生の為にお働き頂けることを心より念じ導師をお勤めさせて頂きました。
南無大聖歓喜双身天王
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本尊法楽 | 開眼法要 | |
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記念写真 |
合掌
2020年12月01日
7月28日、待ちに待った不動堂本尊「不動明王三尊」が完成し京都より搬入、入仏されました。
彫刻のほうは「経過報告(6)」で書きましたとおり、昨年の10月に終了しており、その後、塗師屋(ぬしや)にて漆(うるし)、彩色(さいしき)、金箔(きんぱく)を塗る作業が約9ヶ月の間、行なわれ、当初の予定通り無事、不動堂に入仏されました。
較(くら)べていただくと分るように、彫刻が了(おわ)った木地(きぢ)のままの状態とはかなり違った雰囲気になっています。 前述のとおり奈良生駒山宝山寺本堂の本尊不動明王三尊を模刻(もこく)したものですが、姿、形は分っても彩色(さいしき)の色使いまでは、ご本体が長年のお護摩によってまっ黒になっており分からず、後は塗師屋さんにお任せして、京都塗師屋の永年の技術と経験を駆使(くし)してこのような出来映えとなりました。特徴は漆の厚い盛り上げと紋(もん)にあるのかなと思います。
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胸飾を付ける | 須弥壇にお祀りする | ||
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火炎を後ろの柱にとめる | 矜迦羅童子 | ||
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制吨迦童子 |
如何(いかが)でしょうか、私はかなり迫力のあるお不動様に仕上ったと思っておりますが。
後はこの不動三尊に開眼(かいげん)をすることになります。 開眼は導師が何を目的に開眼するのか、仏さまに何を吹き込むのかによって、後々、その仏さまの働きが決まってくると言われます。 ですから開眼は大変大事なことです。
密教は「一切の現象を否定せずして、むしろそのまま生かし、その根源を直ちに照見してその本来の相(すがた)を開顕して行きますから、人間の根本煩悩たる貪瞋痴(とんじんち)に対しても、それを断尽しようとするような態度をとらず、むしろ宇宙を我として一切を包容するところに特質がある」とされます。 (三井英光著 『密教夜話』 より抜粋)
私はこのお不動さまに「煩悩を断(た)ち切るというより、如何(いか)に煩悩を鎮(しず)めて多くの人が幸せな人生を歩んでいくことができるか、そして、そのためには仏道に目覚(めざ)めることが必要であり、それを導いて頂けるように」との思いで開眼したいと思っています。
開眼供要は護摩供の中で行いたいと思います。 開眼がなされた後は、8月より毎月28日のご縁日に護摩供を修していきたいと思っております。 最初の護摩供は差し詰め、新型コロナウィルスの終息と皆さまが平穏な生活が送れるようにとの息災祈願になろうかと存じます。
合掌
2020年08月10日
昨年12月に不動堂が完成した後、お堂の回りの外構工事、玉垣、参道工事を始め庭園工事や照明、防犯工事と工事の連続になり、やっと7月下旬に全ての工事が終了となりました。
もともとの境内の中に建てたのではなく新たに取得した土地にお堂を建立したので、本体工事費の他に思いの外、工事費が嵩(かさ)みました。 知りあいの住職や檀家さんにも 「一軒、新しく寺を作ったみたいだね」 と言われています。
正(まさ)しく一寺建立となる訳であり、寺号も 「新里不動堂 大聖院」 と名付けました。 大聖院の名は本尊「大聖不動明王」とこの事業を導いていただいた「大聖歓喜天」から頂戴したものです。
これより密教信仰を広めていく道場として多くの方にお参りして頂きたいと念願するものです。
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不動堂 正面 | 受付所 参道 |
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植 栽 風 景 | 玉 垣 |
合掌
2020年08月01日
報告が少し遅くなりましたが、去る5月12日、昨年12月に完成した金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が不動堂にお祀りされました。 この曼荼羅(※1)は額装にしたもので額縁(がくぶち)の製作に約5ヶ月かかりました。
この曼荼羅について「金胎両部の曼荼羅は真言密教において両部不二ではあるが、金曼は修正始覚の智を表わし、胎曼は本有本覚の理を示し、金剛界を果曼荼羅と称し、胎蔵界を因曼荼羅と名づける。 これを並べ懸(か)けるのに種々の異説があるが、通途は「東胎西金(とうたいさいこん)」とされ、向って右方に胎蔵界曼荼羅を、左方に金剛界曼荼羅を懸(か)けるものとしている。(智山法要便覧)」とされる。
よって、上記のとおり須弥壇左右に如法にお祀りいたしました。
平成28年より3ヶ年の年月をかけ、下絵から彩色、截金(きりかね)まで全て一人で描かれた藤田哲也先生(※2)に心より感謝申しあげます。 本寺密蔵院住職の紹介で藤田先生に曼荼羅の制作を依頼することになった訳ですが、全ては゛出会い゛であり、仏さまのお導きによるものであることを実感いたしました。
後世に残る当山の寺宝として、これより多くの人に参拝してもらいたいと思います。
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金剛界曼荼羅 | 胎蔵界曼荼羅 |
※1 曼荼羅(額装寸法)金胎共
幅 153㎝ 縦167㎝
※2 藤田哲也先生
日本美術院 院友 愛知県立芸術大学 模写制作代表
合掌
2020年7月15日
日本は今、どこで地震が起きてもおかしくないといわれており、南海トラフ、首都直下地震の発生率は今後30年以内に約70%の確率とされています。
また、地震に加えて、その他の自然災害、特に昨年は台風による被害が甚大でありました。 これからも、これらの自然災害が増えていく恐れは多分にあり、現に今年発表された気象研究所の報によると「台風は温暖化により減速することによって暴風雨に見舞われる時間が長くなり、洪水や土砂災害が拡大する」 可能性を知らせています。 これら自然現象の大きな変化に如何に対応して行くことができるのかが大きな課題であり、令和の時代の大きな不安といっても過言ではないと思います。
これらの災害から身を守るためにはどうすればよいのか。 個人的には思いつくことはありますが、それ程、多くはないと思えます。
昨年、台風15号、19号が関東を直撃したときは、本気で「迦楼羅(かるら)天像」(※1)を造り、修法しようかと思いました。
日本のどこの寺や神社でも行っていることとは思いますが、先ず寺社に於ては国の安寧と発展を真剣に祈ることが大事なことではないかと思います。
お大師さまが行った「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」(※2)の精神に基づいて私も年の始めは勿論のこと、毎月の聖天浴油供には必ず、国の安寧、特に災害で命を落とす人が1人でも少ないようにと祈ります。
多くの自然災害に対して人間は殆んど無力でありますがよく、祈るだけでは何の解決にもならないと言う人がいます。 私は「祈ることは力」だと思います。祈る力によって人々は昔より多くの災害を乗りこえてきたのではないかと思います。
多くの神仏の力によって、そして、それを信じる多くの人々の祈る力によって日本の国の安寧と人々の幸せが保たれていけることを信じて、今年も聖天供を勤めていきたいと思います。
※1 迦楼羅天 ~ インド神話の神鳥ガルダが仏教に取り込まれ仏教の守護神となった。 八部衆、後には二十八部衆の一人。
口から火を吹き、赤い翼を広げると336万里にも達するとされ、鳥頭人身の二臂と四臂があり龍や蛇を
踏みつけているものもある。(鳥頭人身有翼)
仏教においては、毒蛇は雨風を起こす悪龍とされ、煩悩の象徴とされるため、龍(毒蛇)を常食としている迦楼羅天は衆生の煩悩(三毒)を喰らう霊鳥として信仰されている。 特に密教では、祈雨、止風雨の利益があるとされる。 因みに不動明王の火炎は迦楼羅天そのものとされ、迦楼羅焔(えん)と呼ばれる。
出典:フリー百科事典「ウィキペディア」
真言「オンガルダヤ ソワカ」
※2 後七日御修法 ~ 毎年1月8日より14日まで教王護国寺(東寺)に於て真言宗十八本山の山主を始め、各山の高僧方が配役を司り、一日三座7日間にわたり天皇陛下の御衣を加持し、国家の安泰や世界平和を祈願する法会である。
弘法大師が唐の高僧が皇帝のために始めたのに習って834年(承和元年)に宮中真言院で営まれたのが始まりである。
それ以来、一時中断はあったが現在まで継承されている。
合掌
2020年1月16日
令和元年12月20日、着工より1年2ヶ月の期間をかけて不動堂が竣工し、社寺工務店より寺へ建物が引き渡されました。
平成30年10月23日、地鎮祭が行なわれた後、地盤が弱いため摩擦杭(まさつくい)が約100本程、打ちこまれ、
その上に基礎工事、そして足場が鳶職(とびしょく)により組み上げられました。
そして今年の3月より12月まで宮大工職人による木工事が行なわれる間、屋根を葺(ふ)く板金職人、電気工事人、水道工事人、壁を塗る左官屋、建具職人、畳職人、石工職人、と大勢の職人さん達の力によって
工事は順調に進められてきました。
今年は特に夏の暑さがひどく、又、モンスター台風によって強い風雨の日もありましたが、悪いコンデションにもめげず懸命に仕事にうちこむ職人さん方の努力に頭が下がりました。
当り前のことですが、1つのお堂が完成するためには大勢の熟練した職人さんの力が必要であるということを改めて思い知らされました。
日本の伝統建築を今に受け継ぐ宮大工を初めとする多くの職人さんの技術と尽力に敬意を表するものです。
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正 面 | 側面(手前は集会所) | |
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須弥壇 | 内 陣 | 内陣 折上げ小組格天井 |
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脇 間 |
来年よりお堂の回りに植木屋さんによる植栽がされ、外側には御影石(みかげいし)による玉垣(たまがき)が作られる予定です。
また、肝心の本尊不動明王三尊は全ての工事が終了した8月にお迎えできる予定です。
「令和元年建立不動堂」という記念すべき事業を皆様も最後まで温かく見守っていただき、全てが完成した暁(あかつき)には是非、多くの方にお参りして頂きたいと願うものです。
合掌
2019年12月21日
今年2回目になる聖天尊参拝旅行、今回は大阪に出かけてきました。 行程は次のとおりです。
11月6日(水)
和宗総本山四天王寺 → 愛染院勝鬘院 → 日本橋聖天法案寺南坊
11月7日(木)
福島(浦江)聖天了徳院 → 善福寺 → みのおの聖天西江寺 → 天下茶屋聖天正圓寺
以上、2日間で7ヶ寺をお参りしてきました。
関西は関東に較べて聖天寺院が多いが、その訳は「家康が天海僧上に徳川家の家門繁栄を聖天さまに祈らせ、関東の寺には聖天祈祷をやらせないようにした」という伝説があるが、真偽のほどは?
先ず、四天王寺であるが、今から約1,400年以前、推古天皇元年(593年)に聖徳太子が建立された日本最初の官寺です。 太子は当寺を建立するに当たり、敬田、悲田、施薬、療病の四箇院を構え、鎮護国家の道場、済世利民の実践所とされた。
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四天王寺 山門 | 宝 輪 |
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五重塔 | 回 廊 |
寺域は33.000坪、堂塔伽藍は度重なる戦火天災にあい、再建を重ね、特に昭和20年3月14日の空襲によって七堂伽藍の大半を焼失したが、再現、復興し、この寺域と伽藍は創建当初の姿を今に伝えている。
元々は天台宗に属していたが、今は既存の仏教宗派にこだわらない全仏教的な立場から「和宗総本山」として独立している。
以前より一度はお参りしたいと思っていましたが今回、縁がありこの広大な四天王寺を参拝することができました。
東京でいうと浅草の観音さまのような庶民信仰の総本山とでもいえるような寺と感じました。 それにしても広い境内です。 五重塔は最上階まで上れるようになっているが、私は足が悪いので昇りませんでした。
次にお参りしたのは愛染堂勝鬘院(しょうまんいん)。 この寺は四天王寺の北西の角にあり、四天王寺の施薬院(薬草を植え、病に応じて人々に与える)が元々、あった場所とされています。 正式名は勝鬘院ですが、平安時代以降は愛染明王が本尊として奉安され、愛染明王信仰の普及と共に愛染堂と称されるようになったとのことです。 本堂には本尊愛染明王、そして左側には聖天さまがお祀りされていました。
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勝鬘院 本堂 | 山 門 |
次に伺ったのは高野山真言宗準別格本山法案寺南坊、日本橋(にっぽんばし)聖天。 大阪の中心街にあるこの寺はビルの谷間に小さいけれど朱塗りの山門が一際(ひときわ)目に付きます。 受付におられた住職夫人とおぼしき方にたずねると、毎月1日より浴油供をされておられるとのことでした。
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法案寺 山門 | 本 堂 |
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外陣より | 内 陣 | 浴油仏器 |
翌日は朝8時半にホテルを出発し、東寺真言宗 福島聖天了徳院に参拝しました。 昔は浦江聖天といっていたそうですが、狭い地域の名前なので福島区の福島聖天と最近は呼称しているとのことです。
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了徳院 鳥居 | 参 道 |
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聖天堂 | 外 陣 | 内 陣 |
入口に大きな鳥居、灯籠も大きく聖天尊の広大無辺な慈悲を表しているようでした。 境内も広く又、管理も行き届き、清浄な気持ちでお参りすることができました。
大阪はメンバー4名共、不案内でありレンタカーのナビが頼りです。 それでも時間通り参拝が進み、10時に面会をお願いしていた高野山真言宗 善福寺へ到着することができました。
この寺は箕面市栗生に所在し、元々は勝尾寺に参拝する人の宿坊だったと聞きました。 又、大変見晴らしのいい高台にあり、下界を見下ろす最高のロケーションでした。 ご住職に面会し、お茶の接待を受け本堂へ。
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善福寺 山門 | 本 堂 |
元々、寺にお祀りされていた聖天さまを一念発起して伝授を受け、3年前より浴油供を修しておられるとのことでした。
本堂で法楽を済ませ、聖天法についていろいろな話をやりとりしました。 「修法で分らないことがあれば、直接、聖天さまに聞きなさい」と伝授されたとのことで、実際にそうすると「聖天さまが答えを示してくれるのです」と。 なかなか、意味深い話でした。
次に伺ったのは同じ箕面(みのお)市の高野山真言宗 西江寺(さいこうじ)。 役行者(えんのぎょうじゃ)が開山され、日本初の聖天さまがお祀りされています。 通称「みのおの聖天」。 少し急な石段を上がりきった所に本堂である聖天堂があります。 この辺は秋は紅葉の名所であるとのことで、ハイキングがてらのお参りを見受けましたが、あまり人気(ひとけ)はなく閑散とした感じがしました。
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西江寺 聖天堂(本堂) | 巾着の紋 | 石 段 |
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石 標 |
最後にお参りしたのは、東寺真言宗 正圓寺、通称「天下茶屋(てんかぢゃや)聖天」。 本尊は日本最大の木彫聖天尊。 そしてその右側には十一面観音、左側には大自在天(だいじざいてん)がお祀りされております。 厨子を特別に開いて見せていただきましたが、大自在天をお祀りしている聖天寺は初めてです。 かなり大きな尊体で鼻が長く、単身聖天とよく似ている感じがしました。
又、不動堂の不動三尊はすばらしいお姿で、住職のお話では生駒の湛海さんかそれに係(かかわ)る仏師によるものではないかといわれておりました。
私も見た瞬間に似ている雰囲気を感じましたが、丁度、仏像の調査にきていた専門の人たちより1800年頃のものであると聞き、少し残念な思いをしました。
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正圓寺 本堂 | 聖天壇 |
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不動明王 |
ご住職は毎日、浴油供を修しているとのことで、浴油本尊は白檀(びゃくだん)で彫られているとのことでした。 白檀で作られた聖天さまも初めて聞いた話です。 もっとも自坊の十一面観音も白檀だったなと思い出しました。 だいぶ前に作られた白檀の聖天さまだが、浴油で暖めると白檀の香りが未(いま)だにすると言われたのが印象的でした。
こうして予定の7ヶ寺を巡拝することができ、又、善福寺と正圓寺のご住職と面会して色々、聖天尊にまつわる話ができ、大変中味の濃い参拝旅行とすることができました。 この参拝で得たものを少しでもこれからの聖天信仰に生かしていくことができればと思います。
聖天参拝会のメンバー3名と多忙の中、時間をいただきました善福寺と正圓寺のご住職に御礼申しあげます。
合掌
2019年11月15日
京都の工房で制作中の不動堂本尊としてお祀りする不動三尊像の彫刻が終了したので、去る10月9日
注文先の田平仏具店の若さんと仏師の工房に行って確認してきました。
この不動三尊は前述のとおり奈良生駒山宝山寺の本尊不動明王をお手本に制作したものですが、仏身を2尺8寸としたため、こちらの方が少し大きくなりました。
生駒のお不動さまは開山 湛海(たんかい)律師(1629~1716)が造仏したもので「不動十九観」に依るものです。
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不動明王 | 制吒迦童子 |
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田平仏具店三代目 田平潤 氏 |
胎内札 | 工 房 |
工房の不動三尊(矜羯羅(こんがら)童子だけ一足先に塗師(ぬし)にいったとのこと)は写真のとおり現在は木肌(きはだ)のままですが、これより塗師の元で下地(したじ)を塗り彩色(さいしき)を施し、飾り金具をつけて来年夏の完成になります。 完成し開眼をした暁(あかつき)には機会をみて生駒にお礼の報告ができればと思っています。
折角、京都まできたので、翌日は真言宗御室派(おむろは)総本山 仁和(にんな)寺で特別公開されている「平成大修理完遂 仁和寺観音堂~三十三体のみほとけと幻の観音障壁画」を拝観してきました。
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仁和寺観音堂 | 御室桜 | 五重塔 |
この観音堂は幾度も火災で焼失し、現在の建物は江戸初期に再建されたもので、本尊に千手観音、両脇に不動、
降三世、眷属として二十八部衆、風神、雷神が祀られています。
この度、6年に亘(わた)る半解体修理が行われ再建当時の姿がよみがえり普段、非公開となっている内部を特別公開しているものです(本年11月24日まで)。僧侶の説明によると次の公開は未定であり、再び公開することはないかも知れないとのことでした。
我が寺にお祀りするお不動さまと仁和寺の千手観音にお参りすることができ至極、幸せな気分に浸(ひた)ることができました。
そして帰り道に麩嘉の生麩(なまふ)とかね正のお茶漬け鰻をお土産に買い京都を後にしました。
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麩嘉 (入口) | (店内) |
※不動明王~台幅4.5尺 台奥行き3.75尺 総高さ7.5尺(身丈2.8尺)
※両童子 ~台幅2尺 台奥行き1.9尺 高さ4.5尺
仏師 福井宗傳 略歴
1986年09月 京都松久宗琳仏所に入門
弟子入り、朋琳、宗琳師に師事
2012年12月 松久宗琳仏所を退所
2013年01月 独立して今に至る
54歳、京都在住
合掌
2019年10月20日
9月17日、不動堂に「火炎宝珠」が載(の)りました。 銅板屋根葺(ふ)き工事が終了し、最後の仕上げに屋根中央に青銅製の火炎宝珠が避雷針と共に据え付けられました。
火炎宝珠とはその名の通り、火炎のついた「如意宝珠(にょいほうしゅ)」のことで「意のままに願いを叶える宝」を意味し、仏や仏の教えの象徴とされます。
又、「浄菩堤心(じょうぼだいしん)」は如意宝珠にたとえられます。 このように仏さまの象徴たる宝珠を頂(いただき)にのせた不動堂は完成に向け大方の形ができあがりました。
※露盤の大きさ~4尺四方
火炎宝珠の大きさ~3尺
火炎宝珠の重さ~約200kg
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火炎宝珠 | 露 台 | 取り付け前 | 露台取り付け |
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火炎宝珠取り付け | 取り付け作業終了 |
合掌
2019年09月20日
久しぶりに聖天参拝会のメンバー3名と共に6月17日より1泊にて本宗派寺院である宮城県遠田郡
美里町にある「神寺不動尊松景院」と山形県新庄市にある「圓満寺」を参拝してきました。
昨今は日本国内どこへ行くのにも交通の便がよくなり宮城県も山形県も新幹線が走っており、僅(わず)かな暇を見つけて出かけることができます。 改めて文明の利器に感謝です。
当日は朝9時に川口駅を出発、大宮駅から東北新幹線に乗り古川駅で下車。 駅前で昼食をとりレンタカーで松景院に到着。
すぐに中村隆海住職の出迎えをうけ伽藍の案内をしてもらいました。
広い境内には大師堂、馬頭観音堂、本堂、そして住職が夢告より感得した不動尊仏足跡、修行の滝等、先代住職の努力と信仰の結晶がここかしこに残されています。
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全 景 | 大師堂 | 不動の滝 | 不動の滝 仏足跡 |
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馬頭観音堂 | 受付所 | 本 堂 | 聖天尊 |
特に圧巻だったのは世界最大の塑像(そぞう)である本尊不動明王。 藁(わら)の繊維を練り入れた粘土、麻(あさ)の繊維の入った漉土(こしづち)、漆喰(しっくい)等を塗って仕上げたとのことで、特にこの漆喰には住職が21日間の断食、21万枚護摩修行をした護摩の灰を混(ま)ぜているとのこと。 又、台座の岩には、この護摩の灰を混ぜた粘土を1へらづつ信者さんにも塗り込んでもらったとのことです。 住職、信者さんの熱き思いが込められております。
しかし、2011年の大震災の折には毀損(きそん)し、その後、より堅固なものとして修復されたとのことです。
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塑像 不動明王 |
総高7メートル、総重量40トンと書いても容易に想像はできないと思いますが、本堂内陣奥の後堂2階(本尊を祀る内陣奥の後堂は階段で2階に上がれるようになっている)に上ると本尊さまのお顔がよく見え、その大きさが実感できます。 又、本尊さまの前にはロールスクリーンが掛けられておりスイッチで上げ下げができるようになっており、ロールスクリーンが上っていき、お不動さまの姿が少しづつ見えていく様は感動ものです。
そして本堂の脇壇には大聖歓喜天尊が祀られており、良縁成就、子宝成就の祈願は專らこの聖天さまで行うとのことでした。 聖天さまへの法楽を捧げ、しばし住職との語らいの後、宿泊予定の鳴子温泉のホテルへと向かいました。
翌日は鳴子温泉を出発し、次の参拝目的地である山形県新庄市へと約1時間程、車を走らせ、約束時間の朝9時30分丁度に圓満寺に到着。
副住職の出迎えを受け、早速、聖天堂を参拝。 内々陣に祀られている聖天さまの真近かにおいて法楽をいたしました。
その後、山尾順紀住職の案内にて庫裡でお茶の接待をうけていると「お護摩の準備ができたので聖天堂へ」と案内され入堂着座。 するとすばやく法衣に着替えられた住職、副住職によって「天蓋(てんがい)護摩」が修されました。(この紙天蓋は出羽三山の山伏秘伝のものと伝わっているそうです)
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山 門 | 藁葺のお堂 | 杉の一木彫り | 聖天堂(護摩堂) |
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聖天堂 内陣 | 聖天堂 側面 | 本 堂 | 天蓋護摩 |
山尾住職は現在、新庄市長をお務めになっており、この日はわざわざ公務を半日、休まれ、我々のために護摩供を修し、お寺や市の活動、事業等について長時間、お話をして頂きました。 感謝。 多謝。
このお話の中で特に印象的だったのは、圓満寺で主催する13回を重ねた「円満寺お聖天様夏まつり」でした。 壮大なプログラムで7月に3日間、開催されます。 特に「子供、夢花火大会」は本格的な打上げ花火を1時間以上に亘り打上げ、多くの地元の協賛者を募り盛大に賑やかに開催されておられるとのことです。 寺と地域が連携、密着した理想的な行事のモデルと思いました。 又、これを企画する住職のエネルギーにも感嘆しました。
そして、昼食には奥方の手を煩(わずら)わせた心づくしの山菜料理をフルコースで用意頂き山形の味を十分に堪能させてもらいました。 住職、副住職、寺庭婦人によるおもてなしに恐縮しながらも、ありがたくそのお気持ちを頂戴して参りました。 帰りには、名物のサクランボを買い帰途につきました。
6月は檀務が少ないこともあり、長野と東北、2回の参拝旅行をすることができました。 普段、自坊にばかりいると檀務と行事に明け暮れる毎日ですが、こうして仏さまを通して色々な地域、お寺に行くと 大変、勉強になります。 特に聖天さまに導かれながらの参拝旅行はいつも得難(えがた)く、更に信仰を深めるよき旅となっています。 できれば今後も回を重ねていきたいと念じています。
合掌
2019年07月15日
数年前より家内と約束していた本派の長野古刹寺院参拝がやっと都合がついて実行(と言っても1泊での三ヶ寺参拝ですが)できました。
6月12日、朝、車にて関越自動車道より上信越道路そして長野道を走り先ず松本を目指す。 約3時間程で、本宗智山派牛伏寺に到着。 丁度、昼食時間になったので、参拝の前に近くのそば屋を見つけ昼食をとる。 地元の人で一杯の店のそばの味は仲々のものでした。
海抜千メートルの山上に位置する金峯山牛伏寺(きんぽうざんごふくじ)はその昔、本尊十一面観音の霊力により経典を積んだ
2頭の牛が、この地で同時に倒れたことに由来しています。 古来より牛伏厄除観音と称し、厄除霊場として県内外に知られている名刹です。
坂道の途中にある冠木門(かぶきもん)前まで車を乗り入れ、山門、本坊、如意輪堂、仁王門、観音堂を巡拝しました。
特に如意輪堂は茅葺の大規模なお堂であり、観音堂と共に伽藍の中心をなしています。
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冠木門 | 山 門 | 如意輪堂 |
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牛の像(青銅) | 仁王門 | 観音堂 |
次に向かったのは、長野市篠ノ井にある長谷寺。
この寺は倅(せがれ)が本山専修学院に入学した時の生徒監(せいとかん)であった岡澤慶澄師が住職をしておられ、又、奥方が「釈迦涅槃図の絵解(えと)き」をされるので有名であり、教区や法類会でお願いをしたことがあります。
長谷寺は、西暦637年の開基とされており、仏教が伝来してかなり早い時期に開山されたことになります。 本尊はやはり十一面観音であり平安時代の作、秘仏となっています。 山道をかなり上った駐車場に車を止め、階段を上ると山門があります。山門をくぐると、正面に観音堂が高く聳(そび)えて見えるのが印象的です。 又、観音堂から見下(みお)ろす下界の景色もすばらしいものがあります。 長野は冬は場所によっては雪深い所もあるようですが、夏は気温も低く爽やかに感じられます。
当日は突然の参拝でしたが折よく住職夫婦に会うことができ、ご夫婦揃って寺の護持に努めている姿を拝見することができました。
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山門へ続く石段 | 山 門 | 観音堂へ上る石段 | 観音堂 |
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マニ車 | 観音堂より山門を見下ろす | 寺号額 |
最後に参拝したのは、北佐久郡御代田町にある真楽寺。
こちらも長野の古刹として有名であり、一度は参拝したいと思っていたのですが、先程の岡澤師と同様、
倅が専修学院入学時の副生徒監をしていた古越深志師が総本山、別格本山修行の後、最近、真楽寺の住職として晋山された話を聞き伺った訳です。
浅間山真楽寺と号し、用明天皇の勅願により開山。龍神伝説、浅間山別当、勅願寺として知られる。
第31代用明天皇は長子である聖徳太子の勧めもあり仏法に深く帰依されていたが、その頃、浅間山が突如、大噴火した。
天皇は早速、勅使を派遣され浅間山の鎮火祈願のために真楽寺を建立され、御山安穏と人民救済の祈りを捧げたとされています。
境内には10間は超すかと思える大本堂を始め、三重の塔、仁王門、書院と見所が沢山あり、その昔、
源頼朝公も42歳の厄除けに参詣したことは有名だとされています。
当日は不意の訪問にも関わらず古越住職の出迎えを受け、久しぶりに元気な姿を拝見することができ大変、嬉しい思いをしました。 山内伽藍を全て案内してもらった後、普段は参拝できない聖天堂を特別に参拝させて頂きました。
この寺の益々の興隆と古越師のご活躍とご多幸を心より聖天尊にお祈りをして、真楽寺を後にしました。
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本 堂 | 観音堂より山門を見る | 三重塔 |
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観音堂 | 聖天堂 | 大地蔵菩薩 |
今回、参拝した長野の寺は皆、名刹であり古寺をお護りしていく住職のご苦労は如何許りかと同じ住職として余計なことを考えてしまいました。 これからもご本尊のご威光益々輝き寺門の興隆と衆生を護らせ給うよう心よりお祈りを申しあげて参りました。
合掌
2019年07月01日
令和の新時代を迎えた5月18日(土)午後2時より、住職、職衆3名、総代、世話人14名、社寺工務店、鳶職10名、計27名の参列を得、「不動堂上棟式」が盛大に挙行されました。
当日は晴天に恵まれ、先ず上棟法要、次に古式の作法に則り宮大工による工匠式が行われ、その後、役員さん方奉納による樽酒の鏡割、乾杯がなされ、引き続き午後3時より頌徳会館に席を移し、上棟式祝宴が催されました。
檀信徒各位、並びに社寺工務店の協力と尽力により建設工事は順調に進んでおり、竣工は予定通り本年12月末になります
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会場入口風景 | 祭壇。棟札 | 式次第 | |
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芯束(しんづか) | 法要 | ||
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蛙股(かえるまた)の彫刻 | 引網、槌打の儀 | ||
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鏡割り | 祝宴・総代挨拶 | 社寺工務店挨拶 | 乾杯 |
合掌
2019年05月30日
昨年11月より本年1月にかけて不動堂の基礎工事がほぼ終了しました。
何台ものコンクリートミキサー車によって運ばれた生コンが鉄筋の組まれた木枠(きわく)の内側に注がれ、堅固な基礎ができあがりました。
まだ現場には建物の説明看板は建てていませんので、近所の人やお墓参りの人達は何が建つのかと興味津々(しんしん)に覗(のぞ)き見ていく人が多くなりました。
木工事は3月下旬か4月上旬頃より始まる予定です。
顧みると、当山の本堂は平成元年着工の建物であり、それより30年の歳月を経て、この度の不動堂は未だ新しい元号は分りませんが(4月1日政府が公表の予定)、新元号元年に完成する予定の建物となります。 何か不思議な巡り合わせを感じます。 これも本尊不動明王と聖天尊の為(な)せる技なのかと考えたりもします。
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不動堂 正面 基礎 | 不動堂 側面 |
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集会所 基礎 |
合掌
2019年01月20日
11月19日より1泊2日で四国の聖天奉安寺院をお参りしてきました。
先ず羽田空港より松山空港へ朝9時に降りたち、レンタカーを借り松山市にある繁多寺(はんたじ)へ。 こちらは四国札所50番、真言宗豊山派、本尊薬師如来であり、本堂に向って左側に鳥居、そしてまだ建て替えたばかりのような立派な聖天堂があります。 徳川4代将軍家綱公の念持仏3体の1つである歓喜天尊が祀られています。
境内はまだ時間が早いので人気(ひとけ)はなかったのですが、1人、まだ若いフランス人(勝手な想像ですが)かと思えるような女性が白衣にすげ笠、金剛杖を手に休憩していました。 遠い国から独り旅のようで、会釈をしたらニッコリ微笑(ほほえみ)を返してくれました。
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繁多寺 本堂 | 聖天堂鳥居 | 歓喜天扁額 | 聖天堂 |
次に向かったのは、伝説の聖天行者である高野山真言宗大僧正、故三井英光師が住職をしておられた神宮寺(じんぐうじ)です。
松山道(高速道路)を走り途中から今治(いまばり)自動車道に入り、約1時間、西条市にあります。
本堂の外より法楽を捧げ、三井大僧正の思いに耽(ふけ)った後、墓地に師のお墓を見つけ、皆で合掌、回向を申しあげました。 師は60歳の頃より90歳まで聖天浴油供をされ、後進の者に伝授をされてこられました。
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神宮寺 | 三井僧正 墓石 | 昼食によったうどん屋 |
神宮寺を後に次に向う善通寺へと走る間、昼食の時間となりネットで調べた讃岐(さぬき)うどんの店へ。 小さなセルフサービスの店でしたが、やはり本場。 うどんの味は格別であり、大きなイカ天や昆布天等のトッピングも美味しく、又、格安の料金であり、皆、大満足でした。
松山道から高松道へと進み善通寺に到着。 久しぶりの善通寺参拝でしたが、この寺は来る度(たび)に新しい建物が増えています。 聖天堂は前の場所から現在の場所へ移った時、大きく立派なお堂に建て替えられました。 扉を開けて、内に入り法楽の後、本堂、大師堂等を巡拝しました。 その後、鳳閣(ほうかく)寺聖天を参拝した後、ホテルへ。
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善通寺 聖天堂 | 聖天堂内陣 | 納骨堂 |
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鳳閣寺聖天 |
翌20日は朝8時30分に出発、八栗寺(やくりじ)へ。 山の麓(ふもと)からケーブルカーにて上がるこの寺は真言宗大覚寺派、本尊聖観音、開基は弘法大師、八十八ヶ所85番の寺です。
聖天堂の本尊は伝弘法大師作であり、「八栗の聖天さん」と親しまれています。 天堂の外陣に入り法楽。 結界である金網があるので内陣全ては見られませんでしたが、金泊の絵や彫刻等、素晴らしい荘厳(しょうごん)でした。
又、「お迎えの弘法大師像」より見る下界の景色はすばらしいものでした。
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八栗ケーブル | 八栗寺 聖天堂鳥居 | 聖天堂 | 聖天堂内陣 |
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聖天堂内陣 | 本堂・聖天堂 | お迎え大師 |
八栗寺を後にして、高松道より高知道へ車を走らせ、山、山、山の景色を眺めながら次にめざしたのは、高知県大豊町にある定福(じょうふく)寺。こちらは真言宗智山派の寺で「粟生(あわお)聖天」といわれています。
山深い、切り立つような斜面に建つ本堂。紅葉(もみじ)の葉が参道一面に舞い落ちる中を庫裡に案内されご長老 釣井龍宏僧正より寺の歴史や昔の苦労話を拝聴致しました。 その後、本堂にて聖天尊に法楽。 特に、戦中戦後の時代、浴油のごま油が手に入らず、山に生えている椿(つばき)等の実より油を採取したり、大根がないので種をお供えした話等、苦労に苦労を重ねながら仏さまにご供養を続けてこられた当時の状況に思いを馳(は)せました。
現在、御年83歳になられる釣井僧正は矍鑠(かくしゃく)としておられ現在でも毎年11月10日より16日までの7日間、1日3座にわたる聖天浴油供をお勤めになっており、毎月1日と16日は華水供をご修行されておられるとのことでした。 浴油供が了(おわ)ると3kg程、体重が減るというお話、体重が減る程、大変であるが、了った時の満足感は何ものにも代(か)えがたいというような話を聞き、皆、師の仏さまに対するひたむきな思いに感じ入りました。
特に、定福寺において70年ぶりの男子誕生(お孫さん)を大変、喜ばれ、感謝と記念に聖天壇を新調したいと発願されたら、またたく間に信者さんの寄付が集ったというお話は心に残りました。
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定福寺 本堂 | 本堂向拝幕 | 新調された円壇の前で |
定福寺より再び高知道へ入り、今回、最後の参拝寺である竹林寺へ。
四国霊場第31番札所である真言宗智山派五台山竹林寺は名跡であり杮葺(こけらぶき)の本堂は国重要文化財、25年に1度葺(ふ)き替えをすることになっており費用は1回、2億円とのことです。 又、本坊も国重要文化財の指定となっており、将来、解体修復作業の予定であるそうです。
整備された境内の管理を始め、現在の建物を含めた景観を将来に引き渡すための苦労は並大抵のことではないと海老塚和秀住職のお話より伺い知ることができました。
本堂(文珠堂)にて法楽、住職より説明を伺った後、聖天堂を参拝。
皆で法楽の後、海老塚住職の心のこもったご案内に御礼を申しあげ、高知空港より無事寺へ帰着いたしました。
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竹林寺 本防 | 本坊庭園 |
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聖天堂 | 聖天堂・鳥居 |
松山より高松、高知までの全行程、約500kmの小さな旅でした。
合掌
2018年12月01日
10月23日(火)午前10時より「不動堂地鎮式」を執行いたしました。
「密教事相大系」(高井観海著)によると「堂塔を新築するときの地祭りは地鎮法(じちんぼう)であって、鎮護の為に修するのは鎮壇法である。 また一般家屋新築の地祭りは土公共であって、屋堅めは鎮宅法である。 修する所によりてその名を異にするのである。 混じてはならぬ。」とあるが、「元海の
『厚双紙』に顕われたる鎮壇作法は、地鎮鎮壇合行法である。」と記されており、「合行法のときは瓶と輪と橛とを同時に鎮(しず)め埋(う)めるのである。」とされる。
何れにしても諸神地主(地神)に地を乞(こ)う作法であると解される。
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当日は、この行法次第に従って、五色糸(ごしきいと)、瓶(びょう)、五宝(ごほう)、輪(りん)
、橛(けつ)、五穀粥(ごこくがゆ)、桶(おけ)、鍬(くわ)等が用意され生憎(あいにく)の小雨の天気の中でしたが、如法に地鎮鎮壇法が修されました。
次に同月27日(土)には、当土地が地盤検査により軟弱地盤だということで、摩擦杭(まさつぐい)が
50本、打込まれました。 岩盤まで達する杭とは違いますが、これで地盤がしっかりして、これからこの上に基礎工事をすることになります。 木工事は来年からになり、上棟式は5月位の予定になると思います。
合掌
2018年11月01日
5月24日より1泊2日にて京都 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)、因幡薬師(いなばやくし)堂平等寺、更には鞍馬(くらま)寺、山崎聖天観音寺、御蔵山(みくらやま)聖天宝寿寺を「歓喜天参拝の会」(4名)でお参りしてきました。
六波羅蜜寺は西暦951年、醍醐天皇第二皇子 空也(くうや)上人により開創された西国第17番の札所であり
平家一門の史蹟としても著名な寺であり、平安、鎌倉期重要文化財の宝庫と謂(い)われています。
特に空也上人立像を始め、平清盛像、運慶(うんけい)、湛慶(たんけい)像、運慶作地蔵菩薩像、定朝(じょうちょう)作地蔵菩薩像等、国宝の本尊十一面観音を除く国の重要文化財が宝物館にずらりと並んでいる姿は誠に圧巻でした。
今回は我々と同じ真言宗智山派の誼(よしみ)で、普段は信者さん以外、入れない聖天堂を特別に参拝させて頂きました。
まだ、新築して間もない天堂は、朱色と黒色のみが使われ屋根と堂内の壁にはチタンが張られ、又、入口の扉には宇宙法界を表す截金(きりかね)による図柄が描かれております。 恐らく全国で一番、豪華絢爛な天堂であると言えるのではないかと思いました。
又、天尊も金天、そしてプラチナ天もお祀りされていると伺い、金天は兎(と)も角、プラチナ天というのは初めて聞き、皆、驚きを隠せない表情でした。
ご住職の川崎僧正より先代住職よりの浴油供にまつわる貴重な話を伺いましたが、名刹を管理、維持していくご苦労や回りに対する細やかな配慮等も感じさせて頂きました。
次に伺ったのは六波羅蜜寺より車で10分程の、因幡薬師堂平等寺です。 長野善光寺の阿弥陀如来、京都嵯峨(さが)の清涼寺(せいりょうじ)と共に「日本三如来」とい謂われる薬師如来は人々を病気や苦しみから救う現世利益の仏であり、病気平癒、特に「がん封じの寺」として、ご祈祷を依頼する人が後を断たないそうです。
「約1千年前、敏達天皇の子孫 橘行平(たちばなのゆきひら)が海底から引き上げた薬師如来を供養し病が平癒(へいゆ)したことより屋敷をお堂に造り変え、このお堂を因幡堂と名付けた」のが縁起であります。 この本尊薬師如来は、釈迦如来、如意輪観音と共に国の重要文化財となっています。
こちらの寺も真言宗智山派であり、ご住職の大釜僧正にお話を伺う機会を頂きました。 折りしも丁度、本堂の修理工事の前で、仏像の一時保管作業のため大変、慌(あわ)ただしい中でしたが、聖天法について見識を伺うことができました。
六波羅蜜寺、平等寺共にご住職は毎月、聖天浴油法を厳格に修されております。
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六波羅蜜寺 | 因幡薬師 | 観音・聖天堂 |
翌日はメンバーの水野僧正の希望により鞍馬寺に登ってきました。 最初の予定ではケーブルカーがあるので、それに乗るつもりでいましたが到着すると「本日は定期点検のため休業」とのこと。
少しがっかりしましたが、「身を清めるために歩いてあがってこい」との仏さまの教示かなと思い、皆で汗を拭(ぬぐ)いながら約40分、入口で借りた杖(つえ)を頼りにあがってきました。
鞍馬弘教(古神道、密教、浄土教、修験道など多様な信仰の流れを統一)総本山である鞍馬寺は山域全体が大自然の宝庫であり、ことに義経伝説(牛若丸)が有名です。
又、宝物館には等身大の毘沙門天(4体)がお祀りされており、北方を護る神として京都を守護しておられます。
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鞍馬寺 山門 | 鞍馬寺 本堂 | |
鞍馬寺を下りてから、まだ時間に余裕があるので聖天寺院2ヶ寺をお参りしました。
豊臣秀吉と明智光秀の主戦場(天王山)となった山崎にある観音寺(単立真言宗)は京都市内を遠くに見下す山中の高台にあり、聖天祈祷の寺として有名です。 本堂の左にある聖天堂には浴油堂が奥に連(つ)らなっています。 平日ということもあり参拝者は我々以外誰もいず、閑散としていました。
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山崎 観音寺 | 聖天堂 内陣 | 聖天堂 |
最後に行った宇治にある御蔵山聖天宝寿寺(天台宗)は寺歴の浅い寺で、聖天行者で有名な故小松玄澄師の開山になる寺です。 こちらも参拝者に会うことなく、一般の寺と違う聖天寺の特異性を感じました。
大勢の信者よりも少人数でも一人々の信者の要望に対処していく聖天寺の雰囲気を感じました。
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御蔵山聖天堂 |
引き続いて5月28日、鎌倉にある明王院を訪れました。 正式には真言宗御室派飯盛山寛喜寺明王院といい鎌倉市十二所にあります。
鎌倉幕府四代将軍藤原頼経により建立され、幕府の鬼門に当たる十二所に鬼門除けの祈願所として五大明王をお祀りしたのが縁起です。
本尊の不動明王は鎌倉時代の仏師、肥後別当定慶の作と推定されており、像高84cm、十九観様式によるものであります。
本堂と庫裡は茅葺(かやぶ)きで後ろに山をかかえた誠に鎌倉らしい寺です。
毎月28日、午後1時より本堂で護摩法要が行われ、その時だけ本尊不動明王を直接、拝することができると聞き、皆でお参りに出かけました。 約50~60人で一杯の本堂では参拝者にお経本を配り、全員で約50分程、お経を唱えました。 全員参加型の法要でした。
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明王院 入口 | 本堂 |
京都、鎌倉と参拝の旅が続きましたが、皆、多忙の中を調節しながら時間を作る、謂(い)わば「忙中、閑(かん)あり」であり楽しみの一時でありました。
次回はどこに行くのか、聖天さまのみぞ知るかな。
合掌
2018年06月20日
護摩堂建立の経緯(いきさつ)については前にここで書きましたが、これからは「不動堂」という名称で統一することにしました。
去る4月3日、過去に当山の本堂、山門、鐘楼堂、閻魔堂を建てた宮大工である社寺工務店と不動堂建立工事契約を致しました。
建物概要は木造、間口5間、奥行き5間3尺の宝形屋根をのせた不動堂と廊下で繋(つな)いだ10畳の受付所兼法要準備室の併せて151.5㎡の建築面積となります。
全体的に古建築の雰囲気を醸(かも)しだすよう彫刻等は余り使わず、通常より少し太い柱材、部材等を使用するようにしたのが特徴です。
工事の予定は今年の秋に基礎を打ち、来年中には完成の予定です。
又、不動堂の建立と合わせて本尊不動明王を京都の仏具店に発注致しました。 本尊は瑟瑟座(しつしつざ)に座る座像で、身丈2尺8寸、全高7尺4寸、矜羯羅(こんがら)、制吒迦(せいたか)の2童子は全高4尺5寸の三尊形式です。 尊容としては生駒山の本尊不動明王を参考に製作することにしました。
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生駒山宝山寺本尊不動明王 |
仏師は京都在住で以前に愛染明王、軍荼利明王を製作してもらった方です。 ただ、この仏師さんはかなり沢山の製作依頼を受けていて、当山の不動明王の完成は再来年の夏頃になる予定です。
京都の仏具店とのやりとりの中で1つ、面白い話がありました。
それはこの仏師さんが初めて仏像を彫刻した時、お手本にしたのが生駒の不動明王であったという話です。 偶然なのか分りませんが、私は仏縁、それも生駒の聖天さまのお導きを感じています。
「仏師としてお手本として初めて彫った生駒のお不動さまを今回、聖天さまのお導きによって製作する」。 大きな強い力を感じずにはいられない思いです。 これから大勢の人を導き、救ってくれる仏さまとして、この寺に示現して頂きたいと今から念じているところです。
合掌
2018年05月15日
4~5年前より聖天尊に祈願していました山門前の土地(960坪)が、一昨年12月に地主より売却したい旨の話があり、総代とも相談・検討の結果、昨年9月に購入・取得の運びとなりました。
この土地は当山が購入した場合、将来的に寺のためになるものを作るということを天尊に約束していました。 そこで、この度、「不動尊護摩堂建立」を発願いたしました。
現在、お堂の規模や仕様について本堂を建てた宮大工である社寺工務店と打合せを重ねているところであり、また、新しく造る本尊・不動明王についても尊容や大きさなど、京都の仏具店と慎重に打合せをしているところです。
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このお堂と本尊が完成した暁(あかつき)には「当山別院」として、毎月、お護摩修行をし、檀家さんは元より地域の人々にも広くお参りをしてもらえるような場所になるよう努力していく所存です。
私はいつも思うのです。 これからの寺院は檀家さんだけでなく少しでも寺を開放し、広く地域の寺となるよう努めて行かなければならないのではないかと。 誰もがいつでもお参りできる・心が安らかになれるような場所・祈れる場所でありたいと。
私が尊敬する愛知県大御堂寺・水野真圓僧正は「真言行者は護摩供と聖天浴油供を併修して行じていくことが必要である」というのが持論であります。 私も残された人生の中で、それを目指して行きたいと願っております。
これから、どんなお不動様ができるのか、どんなお堂が出来上がるのか、折をみてここで報告していけたらと思っております。
完成までには約2ヶ年かかる予定です。
合掌
2018年02月01日
11月21日より1泊2日にて、密蔵院、正源寺、泉蔵院三ヶ寺合同による「総本山智積院参拝と加賀百万石の城下町 金沢を巡る旅」を実施いたしました。
この総本山団体参拝の旅行は3ヶ年に1度、行っているもので、今までは2泊3日で行ってきましたが、今回は初めて1泊2日にて実施したものであります。
21日午前5時30分、各寺に集合、出発し羽田空港へ。
小松空港に到着し、2台の大型バスに分乗し金沢市内へ。 先ずは近江町(おうみちょう)市場を見学し、兼六園を散策後、ひがし茶屋街へ。 近江町市場は11月6日に解禁されたカニが店いっぱいに飾られていました。 紅葉(こうよう)した兼六園や趣(おもむ)きのあるひがし茶屋街を堪能した後は、小松市に在る那谷寺(なたでら)を拝観しました。
開創1,300年を誇る白山信仰の地であり、巨大で幽玄な岩が残る静寂な趣きのある寺でした。 こうして、1日目の予定を無事消化し、あわら温泉に宿泊。 夕食は68名による三ヶ寺檀信徒の和やかな交流の場となりました。
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近江町市場 | カニ | 兼六園 雪吊り | |
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兼六園 | ひがし茶屋街 | 那谷寺 | 山門 |
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金堂 | 奇岩霊石 | 大悲閣 | 昼食風景 |
2日目は朝8時30分、旅館を出発し、一路、京都智積院へ。 途中、琵琶湖畔にて昼食をとり、午後1時30分、旅の目的である智積院金堂にて三ヶ寺合同の法要に参列。 法要後、小峰能化よりご法話を頂戴いたしました。
紅葉(もみじ)が色彩やかな智積院境内を見学、拝観後、市内で買い物をし、大阪伊丹空港へ。
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智積院 小峰能化よりご法話 | 境内の紅葉 |
1泊2日のため、少し時間的に忙しい感じがしましたが、予定通り羽田空港へ到着し、迎えのバスにて各寺へ無事帰ることができました。
ご参加頂いた檀信徒を始め協力業者の方々に心より御礼を申しあげながら、ご報告と致します。
合掌
2017年11月24日
去る10月13日、秋雨前線によりぐずついた天気が続く中、いつもの聖天参拝の会で東京に所在する聖天寺院参拝に出かけました。
何年か前にも浅草待乳山(まつちやま)聖天 本龍院、湯島聖天 心城院に皆で参拝してきたのですが、今回は以前より一度、お参りしたいと念願しておりました品川大井聖天 大福生院、そして神楽坂聖天 安養院もお参りしてきました。 宗旨はどちらも天台宗です。
大井聖天は住宅地の中にあり注意しないと見過してしまいそうな場所にありますが、少し小高くなった所にある鳥居(山王鳥居)が目を引きます。
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大 井 聖 天 | 聖 天 堂 (本 堂) |
階段を上ると左手に本堂(聖天堂)、正面奥に護摩堂があります。 庫裡玄関にて参拝の旨を告げると本堂の戸を開けて中に案内頂きました。 そして幸いなことに「住職がおりますが面会されますか?」と聞かれたので「是非」と答え、我々は住職より聖天さまについて色々なお話を伺うことができました。
聖天さまは厳しい仏さまであること、そしてその信仰も自(おの)ずから厳しいものでなくてはならないこと等、聖天祈祷寺院でなければ聞けないお話を伺うことができました。 改めて他の神仏とは違う聖天信仰の特殊性について又、注意すべき点について感じることができました。
次にお参りしたのは大井聖天より徒歩5分程の場所にある真言宗智山派 来福寺です。 境内に聖天堂があるということと大井聖天堂のすぐ近くであるということでお参りしました。
こちらも山王鳥居があり、鳥居の奥の小高い場所に聖天堂があります。 大木がうっそうと茂る境内は東京の真ん中にいることを忘れさせます。
本来の予定ではこの後、高野山真言宗東京別院に参拝する予定でしたが、時間の関係で神楽坂聖天へむかうこととしました。
飯田橋駅より神楽坂を上りつめた所に神楽坂聖天 安養院はあります。 往古は江戸城にあったが、家康公が入府の際、当地に移された由にあります。 古地図には今と同じ場所に当院が記されています。
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来 福 寺 山 王 鳥 居 | 来 福 寺 聖 天 堂 |
当寺の本尊は文六の金銅仏である薬師如来であり、先の東京大空襲の際、焼夷弾で破損したがその後、元通りのお姿に復元されたという貴重な話、又、前住は比叡山の回峰行を成満された修行の師であったこと等を前住の奥さまより懇切丁寧にお話を伺いました。
又、当寺の聖天さまは名僧といわれる第234代天台座主大椙(おおすぎ)大僧正が拝まれていた天尊であり、現在毎月1日~7日は月例浴油供、毎月中旬の1週間は別座浴油供を修行されておられるとのことであり、生駒の松本大僧正もお参りにこられたという話を聞き驚きました。
今回、大井聖天、神楽坂聖天をお参りし色々伺ったお話の中で共通なことが一つありました。 それは、天台、真言と宗派は違っても聖天行を通してする済世利民の心は一つであるということです。 聖天さまは確かに特殊な仏さまでありますが、その特殊な個性を済世利民のために発揮して頂くという願いは一つではないかと思うのです。
合掌
2017年11月16日
5月23日~24日、京都、奈良の古寺巡りをしてきました。
第1日目は先ず京都。 高雄山神護寺、栂尾山高山寺と共に三尾の名刹として知られる槇尾山西明寺に参拝しました。
弘法大師の高弟智泉大徳が神護寺の別院として創建したのに始まり、その後、荒廃したが
後宇多法皇より平等心王院の号を命名賜り神護寺より独立した。 現在の本堂は桂昌院の寄進に依るものです。
清滝川のせせらぎを聞きながら新緑に包まれた石段を登り山門を入ると正面に本堂、右側には聖天堂があります。先ず本堂参拝の後、聖天堂へ。 聖天堂は大きく開扉されており内陣まで進み法楽を捧げました。
西明寺 | ||
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清滝川に架かる朱色の橋 | 西明寺山門 | 本堂、聖天堂 |
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聖天堂内陣 | 歓喜天扁額 |
観光客も少なく落ち着いた雰囲気の中、初夏の好天にも恵まれ新緑目映い西明寺を堪能し次の大覚寺へと車を走らせました。
大覚寺は正式には「旧嵯峨御所大覚寺門跡」と称し平安初期、嵯峨天皇がご成婚の折、離宮を建立されたのが前身です。
弘法大師のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が奉安され般若心経写経の根本道場として知られています。 明治初期までは代々天皇又は皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い寺院であり、又、いけばな発祥の寺でもあり「いけばな嵯峨御流」の家元でもあります。
当日は大覚寺総務部長草津栄晋僧正にご案内を頂き諸堂参拝をさせて頂きました。
ご多忙の所、誠にありがとうございました。
大覚寺 | |||
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大覚寺本坊 | 山門から玄関まで いけばなが飾られて |
大覚寺勅使門 | 大沢池 月見台 |
大覚寺参拝を終えた後、塔頭であり聖天尊祈願寺である覚勝院に参りました。 立派な天堂(本堂)の前で法楽を捧げ記念写真を撮り宿泊所のホテルへ向かいました。
覚勝院 | |
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覚勝院 聖天堂(本堂) | 聖天堂参拝 |
2日目は京都駅より近鉄に乗り奈良長谷寺へ。
事前に購入した切符で特急に乗り大和八木駅で下車。 予約しておいたレンタカーに乗り換え一路、長谷寺を目指す。
長谷寺は真言宗豊山派の総本山であり、我々に聖天浴油法を伝授して頂いた名古屋大御堂寺山主水野真圓僧正の所属する宗派です。 水野師よりの依頼を受けられた長谷寺教務執事伊東聖隆僧正のお手を煩わせ山内を全てご案内頂きました。 特に水野師のご子弟が丁度、本山に研修生として修行中であり案内役を務めて頂きました。 これも法縁かと嬉しい思いでした。
牡丹がまだ僅か残り咲いている中、399段の石段を登り本堂へ。 大悲閣と大書された懸造りの大本堂の中には10mを超すご本尊十一面観世音菩薩が鎮座されておりますが足元は見えません。 本堂右側より階段を降り地下堂とも言うべき所に参るとご本尊さまのみ足の部分が。 その両足は参拝者に触られ金箔がとれ、黒光りしております。我々も法楽を捧げみ足に手を重ねました。
その後、普段は開扉されない護摩堂へ。 この護摩堂は潅頂の時だけ使われ普段は入ることはできないとのことです。 特別の許可を頂き、中へ入ると須弥壇には五大明王がお祀りされておりました。 玉眼の入った五大明王は大変素晴らしく思わず息を呑む思いでした。
そして、中央護摩壇の右隣に朱色の聖天壇があり、その上には円厨子。 伊藤執事の許可を頂き、水野僧正が厨子を開けると、そこには何と7体の聖天尊がいらっしゃいました。 その1体1体の天覆をとり包まれている奉書をとると浴油でまっ黒に光っている尊天が現れました。 思わず低頭合掌。 そこで我ら4名、法楽を捧げ水野師の言葉によって御神酒を用意、献酒致しました。
長谷寺 | ||
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長谷寺 山門 | 本堂へ続く石段 | 残り牡丹 |
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後藤純男画伯奉納日本画(1対) | 本堂~大悲閣 |
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本尊十一面観音 | 本堂より伽藍を望む | 下より本堂を望む |
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護摩堂 五大明王 | 聖天壇 |
恐らく、人生で復たとない機会に恵まれた一時でありました。仏縁、法縁でありました。 時間が過ぎるのも忘れ下山すると昼時を過ぎていましたが、我々はそのまま次の室生寺を目指しました。
室生寺は奈良時代の末期、皇太子山部親王(後の恒武天皇)のご病気平癒祈願が興福寺の高僧によって行われ卓効があったことから勅命により創建されたのが緑起であります。 以来室生寺は山林修行の道場として、又、法相、真言、天台など各宗兼学の寺として独特の仏教文化を形成、継承してきました。 その他、厳しく女人を禁制してきた高野山に対し、女人の済度をもはかる真言道場として女性の参詣を許したことから「女人高野」と親しまれています。
現在は豊山派から独立し、真言宗室生寺派大本山室生寺と称します。 こちらも水野僧正の依頼により法務執事の飯田真士僧正のお出迎えを受け山内を案内頂きました。 正に国宝、重文の宝庫ともいうべき諸堂、仏像を拝しながら古い文化遺産の価値もさることながら、自然と調和する三重塔を始め諸堂伽藍のたたずまいに感じ入り、又、女人高野といわれるのはこの優雅さにも由るのではないかと思いを巡しました。 残念ながら石楠花が咲き競う時期は過ぎていましたが、深山の新緑をたっぷりと目の保養にさせてもらいました。
お堂の中で特に目を引いたのは、灌頂堂であり兼学の歴史の中で真言密教の法流を感じさせるものでした。 又、江戸時代5代将軍綱吉公の命により将軍家の祈祷寺護持院の開山となり 新義真言僧では初めて大僧正となった隆光大僧正の墓にも詣で、心より真言密宗の隆昌を祈念しました。
室生寺 | ||
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室生寺 山門 | 金堂 | 弥勒堂 |
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灌頂堂 | 五重塔 | 隆光大僧正の墓石 |
今回、1泊2日の参拝の旅でしたが、今までの参拝旅行の中でも一段と中味の濃い大変有意義なものでした。 今や法友(と呼んでいいか分りませんが)となった水野僧正のお陰、大であります。 これも聖天尊のお導きと深く仏縁に感謝申し上げます。
合掌
2017年05月28日
当山の鎮守(ちんじゅ)は寺より20m位先にある毛長神社(毛長川発祥の地)です。 寺の縁起によれば、毛長社と当山は開創を一つにしており明治時代前は毛長社の別当でした。
このような訳で修法する時、「神分祈願(じんぶんきがん)」では鎮守「毛長大明神」と唱えております。
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毛長神社 |
ここで改めて「鎮守」をネットで調べると次のような説明がでてきました。
① 鎮守神(ちんじゅがみ)は、特定の地域や建物を守護するために、その地域の一角に祀られる神。 鎮守の考え方は、中国大陸から伝来したもので寺院の伽藍を守護する神が起源である。
② もともと大乗仏教の護法善神の思想より寺院の守護神として勧請(かんじょう)したもので、興福寺の春日明神、高野山の丹生(にう)明神、比叡山の山王権現、東寺の鎮守八幡宮など多くは寺院の建立以前からの地主神(じぬしがみ)を改めて祀った。~とあります。
又、真言宗では弘法大師が唐の青瀧寺において、恵果和尚より金胎の両部大法を付法伝授され、その青瀧寺の鎮守が清瀧権現であり、その後日本に渡り醍醐寺の守護神となったので醍醐系の寺院では清瀧権現を鎮守として祀る寺院があります。(川崎大師、成田山など)
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聖天堂 |
私の寺では毛長明神を鎮守としながら境内北東の鬼門に聖天堂を建立し、仏法興隆と寺門の興隆を併せて祈願しています。 これも広い意味で鎮守ということができるのではないかと思います。 仏法守護神を祀り本尊をお護りする。
浅草の観音さまの鬼門には待乳山(まつちやま)聖天が祀られており、江戸城の鬼門には寛永寺が建立され、平城京では東大寺が、平安京の鬼門には延暦寺と、広義の鎮守の考え方?(鬼門除け)は沢山見受けられます。
このように見てくると、どの寺にも鎮守は必要なのではないかと思います。 神祇でも天部の神さまでも何かお祀りしたほうが良いと思うのです。(※浄土系寺院は考え方が違うので別にして)
昔は農家さんの屋敷にはお稲荷さんが祀られていました。 又、会社のビルの屋上にも鳥居と社殿が今でも見ることができます。 お寺にも何かしらか縁のある鎮守(守護神)をお祀りすることは大事なことではないかと思うのです。 人法繁昌のために。
合掌
2017年01月15日
10月11日、大宮駅より北陸新幹線に乗り金沢に旅行に行きました。 北陸新幹線が開通してもうすぐ1年になりますが、話の種に乗りたかったこともあって友人と金沢旅行を計画しました。 金沢には10年以上前にも行ったのですが、今回は観光の合間に聖天さまを祀っている寺(3ヶ寺)にもお参りをしてきました。
昔のだいぶ古い資料を参考に参拝に行ったのですが、この内2ヶ寺はよくお参りされているようでしたが、1ヶ寺は全くお参りされている感じがなく埃(ほこり)にまみれている感じでした。 寺といえども永く信仰を保つことの難しさを感じさせられました。
この2ヶ寺の内の天台宗 西養寺は前田利家公、利長公も参詣され利常公により再興された寺です。 特に聖天さまは利常公が守り神として兜(かぶと)の中に納めていたと伝えられています。
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西養寺 | 養智院 |
お参りの合間に近江市場(おうみいちば)を覗(のぞ)くと、カニの解禁には少し早く(11月から)残念でしたが、のどぐろ(赤ムツ)がどこの店でも沢山売られており今や高級魚となったのどぐろは値段も仲々のものでした。
つづいて11月7日より一泊の予定で兵庫と京都の聖天さま参りをしてきました。 先ず新幹線にて東大阪駅まで行きレンタカーを借りて尼崎にある園田聖天 福田寺に参りました。 住宅街の中にある祈願寺院で宗派は真言宗聖天派です。
聖天堂に入り法楽を捧げた後、ご住職よりお祀りされている聖天さま4体を直接見せて頂きました。 木天(もくてん)が多くありました。 毎年12月下旬から21日間の浴油に入られる由とのこと。 帰りには三井栄光大僧正の浴油供伝授を収めたDVDを頂き大感謝でした。 仲々手に入らない貴重な資料です。
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聖天堂 | 円 壇 | 大師堂 | 境 内 |
夜は京都に宿をとり、いつもの気のおけないメンバー(歓喜天参拝の会)で楽しい食事会を致しました。
翌日は午前中、山科(やましな)聖天 双林院、東山聖天 香雪院、東山 双林寺を巡り、午後は事前に連絡しました西陣聖天 雨宝院に参拝しました。 ここは弘法大師を開基とする寺で大師が嵯峨天皇の御悩平癒のために玉体に御等身の歓喜天を一刀三礼し祈願した寺です。 また重要文化財の千手観音立像は圧巻であります。 聖天さまに深い造詣を持たれ熱い思いをよせるご住職より色々なお話を伺い、時の過ぎるのを忘れました。
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山科聖天 | 東山聖天 |
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西陣聖天 聖天厨子 | ||
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千手観音 | 聖天堂 |
市井(しせい)に息づく寺とでも言ったらよいのでしょうか、庶民の信仰に支えられ今に生きる聖天信仰がこれからも末永く続いていくようにそれぞれの寺の発展興隆を心よりお祈り申しあげました。
合掌
2016年12月01日
1、聖天さまをただひたすら信じて純真な気持で長く信仰を続けること。
どんな仏さまでも一緒であるが、疑いの念を持たず、唯ひたすら信じていくことが基本である。
2、心身を清潔に保つこと。
聖天さまは大変きれい好きであるので不浄は厳に慎まなければならない。 心と体を常に清浄にすること。
3、お供物は自分が美味しいと思うものをあげること。
大根や神酒の他、甘味のものをお好みになるので、自分が美味しいと思えるものを吟味してお供えすることが肝要である。
4、愚痴は言わないこと。
聖天さまは愚痴が嫌いです。 愚痴を言わずひたすら精進することをお喜びになります。
5、ご利益を他人に言わないこと。
聖天さまから受けたご利益を自慢したり他の人に言ったりすることは慎んだほうがよい。
6、願いが叶った時は必ずお礼参りをし、感謝の誠を奉げること。
自分のことだけを願うだけでなく、心願が叶った時は晋く回りの人の幸せも祈れるようになること。 これは布施行に通じるものです。
7、最初に自分で決めた約束は守る。
最初にお参りする時に約束した事は必ず守らなければならない。 断物(たちもの)はしないほうがよろしい。 又、在家の人は家に天尊を祀ってはいけません。
8、布施はけちらない。
聖天さまにお供えする布施や灯明料はけちってはいけません。 我々僧侶も聖天さまに必要な仏具等を購入する時は決して金額を負けさせるようなことをしてはいけません。 但し、その人その人の分(ぶん)に応じた中で精一杯できることをすればよい。
9、厳父(げんふ)に接するようにする。
聖天さまは非常に厳しい面もあるが、その心は優しく皆を救わんとする心の持主である。 その優しさに甘えず、又、そうかと言って距離をあけすぎてもいけない。 厳しい父親に接するような気持ちでいることが良い。
私は聖天尊を信仰し、お参りを始めて今年で33年を過ぎました。 夏の暑いとき、冬の寒いとき、又、体の調子が悪い時でも修法を続けてきました。 今までに華水供を二千座以上修し、現在は浴油供を毎月4座修しているところであります。 自分の年令を考えると何時まで聖天尊をご供養できるか分かりませんが、それは天尊の取り計らいにお任せする気持でおります。
永い間、天尊にお仕えしてきた中で、以上の9項目をお参りに必要な心得として感じています。 これは在家に限らずです。 一見、面倒なようでありますが、仏に仕える為にはこの位の気持ちや覚悟を持たなくてはならないかと思います。
特に4番目の「愚痴を言わないこと」は最近、天尊より直接言われたことです。 考えてみれば、仏教の根本煩悩の貪瞋痴(とんじんち=三毒)の1つですので、仏教信者としては当たり前のことですが。
このように心に注意をしながら心掛けていくことが天尊への奉仕であり、それはそのまま仏道修行へとつながっていくことであると思います。 天尊のお導きに感謝しながら、これからも天尊修行の道を歩んでいきたいと願っております。
合掌
2016年9月1日
約半年の製作期間を経て、4月14日、京都より軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)のご尊像が聖天堂にお祀りされました。 仏師は以前、愛染明王 を彫刻した人で京都の仏具店お薦めの仏師です。
(軍荼利明王はグンダリンの音写で水瓶あるいはとぐろを巻いた蛇をいい、甘露(かんろ)をいれる壺という意味ももっている。 その姿は一面三目八臂の姿で、2本の腕で交差する大瞋印(だいしんいん)を結び、他の腕には武器や斧(おの)を持ち、顔は三ツ目でとぐろを巻く蛇を身に纏(まと)っている)
何故、聖天堂にこの軍荼利明王を奉祀するのか。 少し専門的な話になりますが、聖天尊は毘那夜迦(ビナヤカ)と十一面観音が合体した神(仏)でありますので、行者の拝み方によっては実天(じってん)である毘那夜迦の強力な性格が表に出る場合があります。 聖天としてではなく障礙神(しょうげしん)としての性格が。
そこで毘那夜迦の力を抑制するのが軍荼利です。 軍荼利は常随魔(※1)ビナヤカを降伏(ごうぶく)する本誓をもっています。 ですからビナヤカの障礙をなくし、本来の仏法守護神たる天尊として活躍して頂くために軍荼利を祀るのです。
聖天真言の「オンキリクギャクウンソワカ」のキリクは十一面観音、ギャクは聖天、ウンは軍荼利を表しています。 十一面と軍荼利は聖天と一つなのです。 聖天を信仰する者は十一面と軍荼利も同時に信仰し、常に意識してこの真言を唱えるようにしたいものです。 ちなみに、この真言は権実の真言であり、「オンギャクギャクウンソワカ」は両実双身の真言とされています。
ここで聖天信仰について考えると、聖天は権実二天(※2)が持つ強力な力ゆえに他の仏では叶(かな)えてくれぬような願いでも全て叶えてくれるというご利益絶大の神(仏)として人気がありますが、それは方便行であり仏法守護神である以上、「仏法を信じ人として有益な生き方をするよう」お示しされるのです。 拝めば直ぐご利益をくれるという短絡的な考えでなく「衣食足りて礼節を知る」ということを示されているのです。
ですから私の聖天信仰においても、後で振り返ると全て聖天尊の図らいだったと感じるのであって、ちょっと拝んだからといって直ぐ結果を出してくれると思うのは如何(いかが)なものかと思います。 しかし「ここぞ」という時には答えを示してくれる神(仏)であると思います。 これは私だけでなく他の聖天行者も同じようなことを言っているのでまちがいはないと思います。
聖天尊に魅(み)せられて早や30年以上の歳月が流れました。 最初は寺の発展のみを祈ってきましたが、今は国家の安寧(あんねい)と真言宗、当山の興隆そして信者さんの幸せを祈る毎日です。 ご供養したからご利益を頂くという考えではなく、純粋にご供養すること自体が大事なことであると思えるようになりました。
仏像を祀(まつ)るということは基本的に祈願ではなく供養する心、供養させて頂く心で、仏と心を通(かよ)わせていくことが肝要かと思います。 これからは、聖天堂須弥壇中央の十一面観音、そして隣に新しく軍荼利明王をお祀りし、聖天尊と三位一体(さんみいったい)の境地でご供養申しあげていく所存です。
合掌
※1 常随魔(じょうずいま)
「毘那夜迦は常に一切有情に随逐して障難をする故に常随魔と名づける。 ~中略~ このような毘那夜迦の障難を除くのはただ観音と軍荼利だけである。 故に諸障難あり所求不如意の人は大日、並びに観音、軍荼利に帰依してこの天の像を浴すれば一切の障難は自然に消滅する」と説かれている。(含光記より)
※2 権実二天(ごんじつにてん)
実天(じつてん)とは実類(じつるい)の天、即ち「大自在天(だいじざいてん)の魔王(まおう)たる毘那夜迦」をいう。 権天(ごんてん)とは権類(ごんるい)の天、即ち仮の姿をとって表れるという意味で、「十一面観音が仮に毘那夜迦の女天の姿に化身していること」をいう。
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軍荼利明王 | 聖天堂須弥壇に祀られた軍荼利明王 |
2016年04月28日
大晦日、午後11時45分より除夜の鐘の法楽(ほうらく)の後、第一鐘を撞(つ)き、元日午前0時を期して元朝不動明王護摩供を修し、その後3時間程の仮眠をとり、午前8時より地元町会主催による「元旦参り会」の接待を行い、午前10時頃、やっとお雑煮(ぞうに)を食べホッとする一時(ひととき)を迎えます。
そして元日の夜7時に聖天香湯供(こうとうく)を行(ぎょう)じ、2日の午前3時より聖天浴油供(よくゆく)に入り結願(けちがん)は7日となります。 これが毎年行っている私の正月のタイムスケジュールであります。
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年末年始の日程は年を重ねるにつれ体も少々しんどくなりつつありますが、最後は気力だと自分に言い聞かせ少しでも長く浴油供を修していきたいと念願しているこの頃です。
行(ぎょう)を修していると、色々な思いが頭に浮かびます。今年はこんな事を思いました。
私達真言宗の教えの基本は教相(きょうそう)と事相(じそう)です。 教相は分かり易くいえば学問、理論であり、事相はこれを信じて行う実際の修行、行法をいいます。 教相と事相は分(わ)けて考えるのではなく、車の両輪(りょうりん)の如(ごと)し、どちらか片方だけでは仏の境地(きょうち)を得ることはできないと教えられました。
理論上は勿論その通りであると思いますが、誤解を恐れずに言えば、私は先に事相があって教相があるのではないかと思います。 教相も無論大事なものでありますが、行をしないことには一歩も前に進むことができないからです。 「鰯(いわし)の頭も信心から」ではありませんが、先(ま)ず信じて行ずることが先決であると思います。 そして、それを証(しょう)する大事な役割が教相であるのではないかと。
「法験(ほうけん)とは「入我我入(にゅうががにゅう)とは」 こんな言葉が頭を過(よぎ)りますが、一体こんなことを真剣に考えて日々宗教活動している僧侶がどれ程いるのか(ちょっと言い過ぎですね)。 "営業"を抜きにして "自行(じぎょう)"として祈祷(きとう)や修法をする意味や価値を若い僧侶に教えていかなければ真言宗の発展もおぼつかないものになるのかなと思います。 「真言行者」という言葉が死語にならないように願うものであります。
興教大師(こうぎょうだいし)の言われた「自(みずか)ら修(しゅう)して知(し)れ」という言葉の意味を重く感じるものです。
自ら修して。覚(さと)ったものが初めて「教化(きょうか)」というものに繋(つな)がっていくのではないか。ただ教化、教化と唱えても「絵に描(か)いた餅(もち)」になるのではないかと思えてきます。
いつの時代でも、この辺が難しいところかなと、又それぞれに生活の大事さもあるし等と思いつつ、私は今年も聖天法に現(うつつ)を抜(ぬ)かしていきたいと思っております。
合掌
2016年01月01日
11月29日、午前中にてご法事をお務めし、またまたの聖天尊奉安寺院巡りに出かけました。
聖天さまをお祀りしている寺は思ったより沢山あるのですが、きちっとした形でご供養(華水供や浴油供)されている寺は全国的にも少ないのではないかと思います。 全国の奉安リストもありますが、問い合わせてみると、ただお祀りしているだけの寺も多いようです。
実際にご供養するとなると、かなりの時間や手間暇がかかるのは当り前なのですが、その前に一生続けるという覚悟が必要となってきます。 これは自分の意志というよりも尊天との仏縁ということに尽(つ)きるのかなと思います。 いくら固い信念で始めても途中で挫折(ざせつ)する者もあり、最後は尊天のお導きがなければできないことなのかと思います。
さて、今回は茨城県にある奉安寺院2ケ寺をお参りしてきました。 常磐道、圏央道のお陰で、大分、時間が短縮され思ったよりも早く到着しました。
まず最初は天台宗円密院です。 稲敷市信太古渡にあり霞ヶ浦に面した農村地帯で、回りは畑や田に囲まれたのどかな環境にあります。 ご住職のお話によると、この辺の地域は千葉の成田山不動の信仰が強く、聖天さまを知る人は殆どいないという話でしたが、良縁成就と安産祈願に力を入れているということでした。
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聖 天 堂 |
次に伺ったのは、竜ヶ崎市大徳町にある同じく天台宗薬師寺です。 ここは秘仏二十三夜尊をお祀りしています。 私も初めて聞いた名前ですが、本来、勢至菩薩であるということです。 ご本尊は薬師寺という名前とは違い阿弥陀如来です。
二十三夜尊のいわれを伺いましたが、二十三夜尊と聖天尊、何か不思議な感じのするお寺でした。 お茶の接待を受けながらご住職ご夫妻と聖天さまに纏(まつ)わる四方山(よもやま)話に盛り上りました。
実際に修法しているものどうしの話は共通点があり楽しくなります。 「聖天浴油供は大変だけど楽しい。醍醐味がある。」という話に皆、大いに頷(うなず)きました。
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本 堂 内 陣 |
大きな寺ではないが、こうして尊天を信じ日々、ご供養の誠を尽している寺にお参りすると心から嬉しく感じます。 仏さまが光り輝くのは伽藍の大小や立派さだけでなく、何といっても住職の祈り、赤心(せきしん)にあると改めて思いました。
合掌
2015年12月15日
去る10月18日 日曜日、ご法事の檀務が終るとすぐに昼食もとらず一路、高野山並びに根来寺参拝に出かけました。
ご承知のとおり、本年は高野山開創1200年の年に当り、春には開創記念法要が盛大に行われ、秋篠宮殿下、安倍総理も参拝されました。 特に金堂の本尊 薬師如来(高村光雲作)が造仏されてより秘仏とされていましたが、この度の開創1200年を記念して初めて開帳されました。 しかし春のご開帳には都合がつかず、この秋(10月)のご開帳は、是非共参拝したいと思い念願が叶いました。
久しぶりの高野山でありましたが、天気に恵まれ1200年を記念して建立された中門(ちゅうもん)をくぐった壇上伽藍(だんじょうがらん)は澄(す)みきった空気の中、いよいよ荘厳(そうごん)さを増し、青空にそびえ立つ根本大塔(こんぽんだいとう)は正にお大師さまの教えを強く感じさせてくれました。
時間の制限もあり、金剛峯寺(こんごうぶじ)そして奥の院を参拝、御廟(ごびょう)では至心に般若心経を読誦し、感謝の法楽を奉げて参りました。
檀家さんを連れての団体参拝で高野山に行ったのは3~4回ありましたがプライベートでの参拝は余りなく、改めて高野山の偉大さを感じることができました。 正に世界遺産として将来にわたり後世に伝えていかなければならないと。
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大 門 | 中 門 | 金 堂 | 根本大塔 |
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御影堂 | 三鈷の松 | 金剛峯寺 | 奥の院へ |
次に参拝したのは、真言宗中興の祖、興教大師覚ばん上人が開創された根来寺(ねごろじ)です。 上人は京都、奈良で勉学に励み、その後、弘法大師を慕(した)い高野山に登り真言密教の真髄を正しく伝えるために伝法院(でんぽういん)を建立し、教学の興隆を図りましたが高野山衆徒との間に不和を生じ、この根来の地に移ることになったのです。
これより新義教学の道場として栄え、堂塔2700寺の一大学山として興隆しましたが僧兵の勢力強大化に伴い、豊臣秀吉の根来攻めにあい、大伝法院と2、3の寺を残し、他は全て焼失してしまいました。 その後、徳川家の外護(げご)を受け復興し、境内36万坪を有する静寂な佇(たたず)まいは、格別な趣きがあり、特に春は桜見物の人で大変な賑わいを見せるそうです。
興教大師は、聖天さまを信奉し「聖天講式」を著(あらわ)しており、池の辺(ほと)りに立つ聖天堂も今回の参拝の目的でした。 本堂より書院、庭園を眺(なが)め、そして、その奥にある聖天堂へ。 2間3間の小さなお堂ですが、方形壇(ほうぎょうだん)には大根、お菓子等の供物が供えられており、樒(しきみ)の花もあげられ「華水供」が修されているように見受けられました。 壇は根来塗(ねごろぬり)とのこと。
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光明殿 | 大 塔 | 大伝法堂 | 庭 園 |
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聖天堂から見た池 | 聖天堂(内陣) |
忙しい時間の中でしたが、宗祖弘法大師、中興の祖興教大師のおわすお山に参拝でき充実した気持になりました。 これからも祖山を心の中に持ちながら自坊での精進に励みたいと思います。
合掌
2015年10月20日
6月の梅雨の合間(あいま)を利用して聖天尊奉安寺院巡りをしてきました。
先ず最初は6月10日、千葉県野田市にある天台宗東正寺に参拝しました。 参拝予定の前には必ず手紙でその旨を記し先方のご都合を伺った上で出向くようにしています。 突然の訪問は失礼であることと、できれば住職とお会いしてお話を伺いたいからでもあります。
こちらの聖天さまは三体お祀りされており、その中の一尊(いっそん)は頭に蛇(へび)が彫刻されている「蛇冠(じゃかん)の聖天さま」という大変、珍しいものです。 ご住職はまだお若いのに、毎月7日間浴油祈祷を厳修され、また自ら歓喜団(お団)を作ってお供えされるなど大変、熱心な御給仕をしておられます。 約1時間程の参拝でありましたが、聖天さまを直接お参りさせて頂き、又、お互いに精進を確認し合えるような和(なご)やかな時間でありました。 距離的に近いこともあり、再度の参拝を依頼してまいりました。
次にお参りしたのは6月18日より19日の行程で岩手県盛岡市にある真言宗豊山派永福寺にいってきました。 この寺の創建は西暦794年、坂上田村麻呂によって建立され南部氏の祈願寺として栄えてきました。 特に南部氏が居城を盛岡に移したことに伴い、盛岡城の鬼門鎮護(きもんちんご)の祈願寺として、寺領八百石、約三万坪に及ぶ境内をもつ盛岡藩の筆頭寺院でした。 しかし明治初年の神仏分離、廃仏棄釈によってわずかな坊一つのみを残すこととなりました。 その後の多難な時期を迎えながらも、多くの先師住職による苦労、努力の甲斐があって「聖天の御山」の法流(ほうりゅう)は受け継がれ、現在でもその威光が発揮されております。
当日、前もって連絡、約束した時間に伺い、本堂を参拝、法楽の後、庫裡にてお茶の接待を受けました。 残念ながらご住職は5年前に遷化(せんげ)されましたが、現在は奥様によって法灯が護られています。 先代住職は大変、護法の念、篤(あつ)い方で一日に三座の浴油供を修し、又、一座ごとのご本尊は別々であったとのお話は、聖天供養の深さを見せつけられた感じがしました。 並みの人間ではできない信仰の強さ、深さを垣間見る思いでした。 残念ながら浴油堂の中はお参りできませんでしたが、次の機会に期待をしています。
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永福寺 |
今回の一泊の旅も同信同行の者と楽しい時間を過ごすことができました。 歓喜天の「喜とは人の喜び」をいい「歓とは人の喜びを共に喜ぶ」ことであると聞きましたが、「他人も喜ばせ自分も喜ぶことのできる人」、それが真の聖天信者であることを心に置き信仰を深めていきたいと思います。
合掌
2015年7月1日
去る3月25日から26日の2日間にわたり泉蔵院を道場にして「聖天浴油供伝授会(しょうてんよくゆくでんじゅえ)」が開筵(かいえん)されました。
聖天さまをご供養するには「華水供(けすいく)」といって、早朝(午前2時から3時頃)の清らか水を汲(く)んで、その水に華(樒=しきみ)を浮かべてお供えする供養法がありますが、最上最高のご供養の方法は「浴油供(よくゆく)」です。
人が風呂に入るような適温に温めた胡麻油(ごまあぶら)に妙香(みょうこう)を入れ、それを一座に300回、或いは400回と聖天さまのみ頭(くし)にかけ注(そそ)ぐ供養法であります。
ここでは聖天さま自体の解説は省きますが、諸尊法の伝授は総本山を始め色々な所で開筵されていますが、天部の修法は「ただ授かっただけの人」では本当の伝授は出来ないと思います。
法を授かり、それを必死に行(ぎょう)じ得(え)た者が初めて他の者に伝えることが出来るのです。 特に、聖天法は昔より修法する気のない者には伝授してはいけないと言われております。 又、器(うつわ)を選ぶことも必要であると思います。法を伝授するに足(た)る人物であるかどうか、この辺も大事なことであると思います。
聖天法を修することは命懸(が)けであります。 昔よりこの世で一番恐いものは何かと聞かれたら「一に聖天、二に税務署」等と冗談にもいわれるように非常に力の強い仏(神)であり、この仏と向き合うには赤心(せきしん=真心)がなければできません。
今回、当山でこの浴油供伝授会を開筵することになったのは素晴らしい阿闍梨(あじゃり)にめぐり会えたからです。 昨年、参拝に伺った愛知県知多半島の大御堂寺(おおみどうじ)ご住職の水野眞圓僧正にお会いしたことから始まったのです。
師は豊山派に籍を置く事相の大家であり、東寺の後七日御修法(ごしちにちみしゅほう)にも承仕(じょうじ)として何回となく出仕され、又、二年前には大本山小野隨心院(ずいしんいん)においても伝授会を開筵され諸流を極められておられます。 特に、聖天さまに強い信仰を持たれ「聖天供は密教の真髄(しんずい)である」と言われました。 私も全く同感であり、志を同じくするものと一緒に研鑽(けんさん)を深めたいと願った訳であります。 志を同じくする者が共に学び共に修行に励む、これこそが仏の真の利益(りやく)であると確信するものです。
水野師は伝授会の一日を教相、特に曼荼羅(まんだら)の解説に当て、もう一日には実際の修法を行(ぎょう)じてくれました。 誠にすばらしい二日間でした。 特に曼荼羅(まんだら)の中の歓喜天の意義と弘法大師が嵯峨(さが)天皇(第52代天皇、桓武帝の第2皇子)と共に神道の奥義を授かり、それが大師が相承した金胎両部の法門と一致し、日本の神々と仏との融合(ゆうごう=日本の神とインドの神の合体)を図られたという話は目から鱗(うろこ)でした。
因(ちな)みに聖天さまは象頭人身(ぞうずじんしん)といわれていますが、実際には余り象に見えるお顔はしておらず、美豆良(みずら)といわれる髪型というか耳の形をしています。 美豆良とは角髪とも書き、日本の古代における貴族男子の髪型であり聖徳太子少年像を想い出させます。
聖天さまはこの美豆良の髪型(耳)をしており、これは弘法大師が究極の守護神、日本の双身歓喜天を作り秘仏の御神体とした証(あかし)であるとの説明は私にとって長い間の疑問が氷解したような気持ちでありました。
正(まさ)しく当山の聖天さまも美豆良の髪型(耳)をしておられます。 インド出身の歓喜天(元はヒンズゥー教の毘那夜迦(ヴイナヤカ)、或いはガネーシャともいう)に一ヶ所、手を加えることにより日本の神と習合したのであり、そのポイントは耳である。 歓喜天の耳の形を変え、美豆良の形にしたのである。 これが水野師の解説でありました。
外来の仏が日本の神となった姿、それが聖天さまなのです。 だから御神酒(おみき)を供え精進潔斎(しょうじんけっさい)しなければならないのです。(聖天さま以外に仏で御神酒(おみき)を供えるものは他にはない。又、顕教では聖天さまを拝まない。)
このように弘法大師が考えられた神仏習合(神仏共存)は日本人の自然な形として長い間、受け継がれてきましたが、明治政府による愚(おろ)かな廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)、神仏分離令により日本古来の宗教文化は破壊されてしまったのであります。
しかし現在でも日本人の多様な宗教の受容性は健在であり、この多神教であるが由(ゆえ)に我々日本人は様々な文化を造り出してきたのではないかと思います。
宗教に無節操ということではなく多神、即ち多様なものを受け入れる力を持っているのであります。 全体を包み1つの世界を作りあげている曼荼羅の精神こそ尊重されなければならないのではないかと思います。
大日如来の中に包蔵される諸尊、諸天善神の御心(みこころ)に近づくためにも今回の伝授会で学び、確認できたことを基に更に浴油供を行じていきたいと念ずるものです。
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伝授阿闍梨 水野眞圓僧正 | 伝授風景 | 円壇荘厳(伝授終了後) |
結びに今回の伝授会を遠近をものともせず、快諾(かいだく)して頂いた水野眞圓僧正の伝法にかける意気に心より敬意と感謝を申しあげます。
南無大聖歓喜双身天王
合掌
2015年6月1日
平成26年の暮れも押し詰まった12月22日、聖天堂に扁額(へんがく)、聯(れん)、そして二股大根(ふたまただいこん)と巾着(きんちゃく)の彫刻が奉納されました。
扁額は、欅(けやき)の板に群青(ぐんじょう)の文字で「歓喜天(かんきてん)」と書かれています。
二股大根と巾着のレリーフは全体が七寸の大きさ(板厚二寸)で彫刻され極彩色(ごくさいしき)で塗られています。 大根は災いを消除する(災危消除)意であり、巾着は宝袋であり富(とみ)を増す象徴(商売繁昌等の増益)であり、どちらも聖天さまのご誓願を表しています。 因(ちな)みに聖天さまの三昧耶形(さまやぎょう)は箕(き)とされています。
箕(き)は昔の農具の一種で刈り入れた籾(もみ)を選別する道具です。 籾を選別するのと同じように「正しい願いを選び一つ残らず叶(かな)えてくれる」という意味を持っています。 しかし流派によっては蘿蔔根(らふこん=大根)とする場合もあり、聖天さまの三昧耶形は定かではありません。
聯は、檜木(ひのき)の板にやはり群青の文字で次のとおり書かれています。 向って右側には「大自在尊観世音 双身隋類度衆生(だいじざいそんかんぜおん そうしんずいるいどしゅじょう)」、左側には「感應道交難思議 是故我禮歓喜天(かんのうどうきょうなんしぎ ぜこがらいかんきてん)」と。
この意味は「大自在天と十一面観音のお二人が聖天さまという仏になって我々の求めに応じて救ってくれる。 そして、その我々を救ってくれるご利益の大きさは人間の思慮分別(しりょぶんべつ)を超(こ)えている。 であるから我々は聖天さまを礼拝するのである」と。 分かり易く述べるとこのような意味になるのかなと思います。 この文は「歓喜天和讃」より引用したものであり、聖天さまのご本誓を一番、表している言葉だと思います。
因(ちな)みに聯とは「二つ相対させて対(つい)にしたもの」という意味です。
平成22年7月に建立されて以来、聖天堂はたくさんの仏具や、絵画等によって荘厳されてきましたが、今回の奉納によって一応の完成をみることになりました。
合掌
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二股大根 | 扁額 | 巾着 |
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左側の聯 | 外陣 欄間 | 右側の聯 |
2015年3月1日
去る11月25日から27日において、2泊3日の日程で密蔵院・正源寺・泉蔵院三カ寺合同(参加者:計71名)にて、真言宗智山派総本山・智積院(しんごんしゅうちさんはそうほんざん・ちしゃくいん)参拝(さんぱい)旅行を実施しました。
この合同参拝旅行は三ヶ年に一度、開催しているもので、今回は兵庫県宝塚市にある古義系大本山(こぎけいだいほんざん)2ヶ寺、そして世界遺産の指定を受けた姫路城を参拝・見学し、さらに京都の紅葉(こうよう)を楽しんでいただくことを特色に企画致しました。
まず、第1日目は早朝6時に各寺を出発したバスで羽田空港に向かい大阪・伊丹空港へ。 伊丹空港より迎えの大型バス2台にて宝塚市にある大本山中山寺(だいほんざんなかやまでら)、清荒神清澄寺(きよしこうじんせいちょうじ)を参拝しました。
中山寺は聖徳太子によって開山され、また、明治天皇を御平産されてより「安産の観音」として賑わっている寺です。 山門を入って参道両脇に建ち並ぶ塔頭寺院(たっちゅうじいん)を始め、見事に整備された伽藍(がらん)・境内(けいだい)の佇(たたず)まいには目を引かれます。 広大な境内に整った伽藍配置は見事なものであり、このような寺は全国でも数少ないのではないかと思われます。 また、この塔頭寺院の1つに成就院があり、その聖天堂もお参りをしてきました。
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中山寺山門 | 参道 | 本堂 | 成就院聖天堂 |
次に参拝したのが台所(かまど)の神、火ぶせの神である荒神(こうじん)さまで有名な真言三宝宗大本山・清澄寺です。 この日は生憎(あいにく)の曇天、小雨模様の天気でしたが山門を上がると目の前にまっ黄色の大銀杏(いちょう)があり、私たちが歩み寄った瞬間に黄金色の散華をしてくれました。 仏さまが出迎えてくれたような有難さを感じました。
この寺のご本尊(ほんぞん)は大日如来(だいにちにょらい)ですが、拝殿(天堂)には三宝荒神王、歓喜天(聖天)・十一面観音が祀(まつ)られ、浴油堂においては毎日、当山法主(とうざんほっす)による荒神、歓喜天の合同浴油供が一日も途切れることなく行われております。 以前、この寺の法主はほとんど、この行堂におられるという話を聞いたことがあります。
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清澄寺本堂 | 拝殿(天堂) | 大銀杏 | 山門 |
2ヶ寺を参拝した後は世界遺産「姫路城」へ。
姫路城は別名「白鷺城(はくろじょう)」(しらさぎじょうともいう)と言われ、白漆喰(しろしっくい)で塗られた城壁の美しさが白鷺(しらさぎ)を連想させることから、そのように呼ばれています。
現在「平成の修理」が進められており、2001年より2015年までの工事期間で事業費は28億円とのことです。 私たちが見学した時には天守閣が未だ一部完成していないということでしたが、まっ白い漆喰で塗られた様は建築当初の姿を甦らせています。 グランドオープンは来年3月とのことでした。
この後は須磨寺(すまでら)を参拝の予定でしたが、時間の関係で取り止めて宿泊先のホテルオークラ神戸へ。 大地震より見事に立ち直った神戸の街並、そしてポートタワーを真近かに見ながら夜景を楽しむことが出来ました。
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姫路城 | 智積院お授け | 金堂 |
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能化さまより記念品贈呈 | 紅葉のトンネル | 智積院参道 |
2日目は朝9時にホテルを出発。 灘(なだ)の酒で有名な「白鶴酒造」を見学後、総本山智積院へ。
約1時間の「日中参拝(にっちゅうさんぱい)」を無事にお勤めして記念撮影。 本年、御歳(おんとし)95歳を迎えられた能化(のうけ)さまより親しくご法話を頂きました。 昨今の「日本人に欠けているもの」について平易(へいい)に説かれるお姿と力強さに、大変感銘を受けました。 総本山に参拝した一番の収穫ではないかと思います。
その後「弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)」で有名な太秦(うずまさ)「広隆寺(こうりゅうじ)」を参拝後、亀岡の「湯の花温泉」に投宿。 71名による大宴会が催され、京都の夜を大いに楽しんで頂きました。
3日目の最終日は終日、思い切り紅葉を楽しんで頂くことを目的にまず「トロッコ列車」に乗車。 保津川(ほづがわ)の渓流(けいりゅう)と紅葉(もみじ)を25分楽しんだ後、嵐山の散策。 そして、午後も「永観堂(えいかんどう)」「高台寺(こうだいじ)」を参拝・見学、しばらくは紅葉を見なくともよいかなと思う程、堪能することができました。 それにしても観光客の多さにはビックリですね。
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保津川の渓谷 | 嵐山 | 永観堂の紅葉 | 黄色のじゅうたん |
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高台寺 | 一面の傘 | 傘亭 |
京都の紅葉の色を目に焼きつけながら、夕刻、伊丹空港より羽田に到着。出迎えのバスにて、無事、各寺に到着後、解散となりました。
今回も体の不調な人や何らの事故もなく楽しい旅行をすることができました。ご参加頂いた檀信徒を始め、ご協力頂いた関係各位に心より感謝申し上げます。
合掌
2015年1月1日
名古屋袋町お聖天「福生院」・名古屋栄の成田山 「萬福院」・大御堂寺「野間大坊」 参拝記
去る10月16日より17日、1泊2日の日程で上記3ヶ寺をお参りしてきました。 1年に1度、聖天奉安寺院を同信の者で参拝しようという話が実現され、昨年の生駒聖天に続き今回2回目の参拝旅行となりました。
袋町聖天福生院(ふくしょういん)は真言宗智山派で著名な聖天寺院であり以前より1度は参拝したいと思ってました。
元々は愛知郡中村の里にあり清洲城主の信仰厚く興隆していたが、その後徳川氏の慶長遷府令により伽藍を現在の名古屋に遷(うつ)され、現在、益々盛況を呈しております。 名古屋市の中心部(中区錦)ということで回りを高層ビルに囲まれた境内には本堂(聖天堂)を始め沢山のお堂が建ち並び、幟旗(のぼりばた)がはためく風景は正(まさ)に祈願寺院らしい密度の濃(こ)いお寺でありました。
当日は松平住職の特別な計らいで本堂内陣に参拝させて頂き、その後聖天信仰について色々お話を伺うことできました。 又、奥さまにもお心遣いを頂き厚く御礼申しあげる次第です。
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山門 | 巾着香炉 | 本堂 |
次にお邪魔いたしましたのは、名古屋栄の成田山 萬福院(まんぷくいん)であります。 このお寺も元々は清洲の地に建立されましたが名古屋城の築城に伴う町作りの一環として名古屋栄に移転され、大本山成田山新勝寺より不動明王を勧請(かんじょう)され名古屋の不動尊霊場となった由(よし)にあります。
そして、12年前に名古屋の目抜き通りにあった場所から現在地に移転、すばらしく荘厳された本堂、伽藍は元より新たに造立された全長約3m、総檜木(ひのき)造りの不動明王を始め五大明王の大迫力に皆、圧倒されました。
ご住職の竹島僧正には色々おもてなしを頂き大感謝でありました。 益々の寺門興隆をお祈り申しあげております。
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2日目に訪れたのは、名古屋市内よりレンタカーを借り高速道路を飛ばして約1時間、知多半島の南方に位置する鶴林山大御堂寺(おおみどうじ=通称 野間大坊(のまだいぼう))です。
このお寺は天武天皇の時代に始まり聖武天皇の時、行基菩薩が中興したと伝えられ、後に弘法大師が諸国行脚(あんぎゃ)の際、一千座の護摩を焚(た)き庶民の幸福を祈ったとされるお寺であります。
そして、承暦年間(1077~81)に白河天皇の勅願寺(ちょくがんじ)として大御堂寺と称せられました。 後に源頼朝公が亡父義朝公の菩提を弔うために七堂伽藍を建立、秀吉公、家康公の庇護(ひご)を受けて発展。 現在、尾張地方随一の祈祷所として信仰を集めています。
本堂は徳川吉宗公寄進、山門は源頼朝公建立、鐘楼堂は鎌倉五代将軍源頼嗣公寄進等と約2万坪に及ぶ境内には国、県の重要文化財が建ち並び、特に悠紀殿(ゆうきでん)は昭和天皇即位の時に建てられた京都御所の建物の一部を下賜(かし)されたものです。
このお寺の由緒を伺うと歴史の生き証人としての思いを深く致します。
しかし、私達がこのお寺を訪れた理由(わけ)は、この永い歴史に包まれた大寺としての史実を勉強しにきたことではなく、このお寺の水野眞圓住職が真言宗豊山派の事相の大家(たいか)であり、特に聖天法に深い造詣(ぞうけい)をもっているからです。 大袈裟(おおげさ)に言わせて頂くと、聖天法の真髄(しんずい)を直接、水野住職よりお聞きしたかったからであります。
我々のこの思いを水野師は知ってか知らずか快く迎え入れて頂きました。 特にご自身で編(あ)み出された独特の護摩祈祷に随喜させて頂いたり、毎日浴油供を修されている聖天さまの天覆(てんぷく)を取り我々の目の前で直接拝ませて頂けたのにはビックリ。
皆一様に感激し、聖天さまに対する水野師の一途(いちず)で直向(ひたむき)な姿勢に頭が下がる思いでした。 約5時間にも及ぶ長い時間、お付き合いを頂き、昼食には奥さまお手製のお蕎麦(そば)までご馳走になり大変恐縮致しました。
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本殿車寄 | 悠紀殿 | 鐘楼 |
本堂 山門
3ヶ寺、それぞれ歴史も伝統も又、その寺の置かれている環境も異なるものでありますが、今回共通しているのは皆、祈願寺院でありました。 そのせいか分かりませんが、住職の人柄は三者三様の魅力に溢(あふ)れ、更に寺庭(奥さま)のお寺を訪れる人への心配り、優しさというものに深く感じ入りました。 と同時にお寺の有り様(ありよう)を今更ながら考えさせられました。 生きた寺の有り様(ありよう)とは? 2日間の出会いに深謝致します。
合掌
2014年11月1日
お香は仏さまにお供えするもの(六種供養といって飲食、水、花、灯明、香)の中でも大事なものの一つです。 お香と一口に言っても線香、焼香や塗香等 種類も色々あります。
お香とは本来、伽羅(きゃら)・沈香(ぢんこう)・白檀(びゃくだん)などの天然香木の香りをいい、そこから線香、焼香、抹香(まっこう)、塗香(ずこう)などが作られます。
仏教の発祥地であるインドは多くの香木の産地であり、また気候も高温であるが故に悪臭を防ぐ目的もあり、香を焚(た)くと不浄を払い、心体を清浄にするとされます。
仏前に花や灯明と共に香を供えることは供養の基本であり、特に日本の仏教で大切にされている「中陰(ちゅういん)の思想」により香は大事なものとされています。 即ち、私たちがこの世に生れた時を生有(しょうう)とし、生きている間を本有(ほんう・ほんぬ)、死を迎えた瞬間を死有(しう)といい、死有から四十九日の間を中有(ちゅうう)又は中陰といい、次の生を受けるまでの間と考えるのです。 そして、この中有の間、亡者は"香を食物"とすると考えられています。 ですから仏事供養には香は欠くことのできないものといえます。
お香の種類の中で、抹香 は粉末状の香で法要の時に使われ(抹香をひくと言います)沈香や樒(しきみ)の樹皮と葉を乾燥して作られます。 線香 は説明する必要もないと思いますが、最近は住宅事情により煙の少ないものやバラ・ユリ・ラベンダー等の香りの香水線香も製品化されています。 塗香 は字の如く身体に直接塗って心身を清めるものであり、指で一つまみを取り掌の薬指(水指(すいし)という)の元に塗ります。 これは水にとけて体の中に入り身口意(しんくい)の三業(さんごう)を清める意味があります。 又、真言宗の修法においては自身の三業を清めると共に仏さまのお体にも塗香を塗ります。(直接塗るのではなく観想で塗るのです)
何れにしてもお香は心や体を清浄にするために必要なものであり、人間の煩悩を取り除いて清涼にすることで、戒を保つことにつながるので 「持戒行(じかいぎょう)」 であるとされます。
このようにお香は仏教にとって必要不可欠のものですが、最近香木が少なくなり価格も高騰しています。 中国で投資の対象として売買されたり高額な贈り物として使われていることも影響しているのではないかと思われます。 そのような訳で、沈香、特に伽羅は既にお香屋さんでも入手が難しい状況であり、又、販売しても1g3万円以上の高値となっています。 伽羅は緑油(りょくゆ)のものが最高とされますが、彼(か)の有名な正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)は"天下第一の名香"とされ過去何人かの時の権力者により切り取られたことは有名です。
伽羅は沈香の最高のものとされますが、よく「沈香と伽羅は種類が違う」と言う人がおります。 しかし沈香の最高質のものを伽羅というのが定説だと思います。
聖天法、特に浴油法を修する時、白檀や丁字(ちょうじ)、沈香、伽羅を使いますが、伽羅の入手は難しくなってきており将来的には使えなくなるのではないかと思います。 その時は入手し得るものでご供養するしかないと思うのですが、伽羅の甘い、あの馥郁(ふくいく)たる香りを懐かしく思う日が来るのかと思うと"一抹"の寂しさを感じます。
合掌
2014年5月1日
香炉のいろいろ お線香や焼香をお供えする器を香炉(こうろ)といい、用途に応じて色々な形や種類のものがあります |
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本堂前外置香炉 | 閻魔堂前香炉 |
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本尊前五具足 | 柄香炉 |
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参拝者用の香炉(本堂内) | 火舎香炉 |
「暑さ寒さも彼岸まで」とは古来より言い伝えられた言葉ですが、本当にこの言葉のとおり お彼岸を境に長かった冬も少し春めいた感じになり、厳しかった暑さも終わりを告げ、ようやく涼しげな季節を迎える訳で、誠に言い得て妙な言葉であります。
お彼岸は春秋2回、それぞれ中日である春分の日、秋分の日の前後3日間を含め計7日間をいいます。 この中日は現在法律で「春分の日」「秋分の日」とされ国民の祝日と定められていますが、「春分の日は自然をたたえ生物をいつくしむ日」、「秋分の日は祖先を敬い亡くなった人をしのぶ日」とされています。
明治時代には、それぞれ「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」と定められ「天皇が歴代の天皇、皇后、皇親の霊を祭る儀式を行う日」としての祭日であったが、終戦後に廃止され「春分の日」「秋分の日」となったものです。(但し皇室においては現在も続けられております)
しかし、古来より農耕民族である日本人は春には作物の豊作を祈り、秋には豊作を祝い祖先に感謝の念を表わしてきたのです。 そして、その元になったのが季節感であったのではないかと思います。 春・秋の彼岸の中日は太陽が真西に沈み、昼と夜の時間が同じになります。 その真西には阿弥陀如来の世界があり、西方極楽浄土の信仰と前述の祖先信仰とが結びつき仏教行事として定着してきたのではないかと思われます。 ですから、お彼岸はお盆と違って日本固有の行事であるといわれています。
何れにしても、自然の恵みに生かされていることに感謝し、私達の生命が遠くご先祖より受け継がれてきたことの大事さを改めて認識する日がお彼岸の意味ということになるのでしょうか。
お墓にお祀りされているのは父母であったり祖父母、兄弟であったりしても、どなたにもご先祖はいらっしゃる訳です。
お彼岸の1週間のあいだに一日だけでもご先祖より受け継がれてきた我が命を省みることができれば、お彼岸の行事も意義あるものになるのではないでしょうか。
合掌
2014年3月1日
新年あけましておめでとうございます。 平成26年甲午(きのえうま)年の年頭に当り、皆様のご多幸を心よりお祈り申しあげます。
当山では、新年を迎えた元旦午前0時を期して、元朝大護摩供を修し、檀信徒の家内安全等を始め天下泰平・万民豊楽・国家安穏・世界平和を、ご本尊不動明王に祈念申しあげたところであります。
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そこで、年頭に当り思いつきの所感を一言。
本年の我国は、国内においては4月よりの消費税増税によりアベノミクスによる上向きの景気感が削(そ)がれる心配があり、政府による大型の景気対策が盛られているところですが、これが効を奏するか、
無駄な公共投資とならないよう願っているところです。 又、東北大震災の復興、津波による原発事故の対応も遅々(ちち)として進んでいない現状であり、更に関東、中部地域における新たな大震災の発生も予測されているところであります。
国外においては、中国・韓国の反日的外交が、昨年にも増して度を強めてくる状況にあり、北朝鮮も含め、仲々、万邦協和という訳には行かない状況であります。
このような言わば内憂外患的状況を鑑(かんが)みる時、心が重く何時になれば誰もが幸せ感に浸(ひた)る時が来るのかという漠(ばく)たる不安に襲われる時もあります。
しかし乍ら、私達仏教徒はいつ、いかなる状況においても心の平安を求め、仏さまを信じ、それぞれに自分のできる事に努めていくことが大事ではないかと思います。
私達日本人は、古来より清潔を好み、勤勉、実直、和を尊び、それらを誇りとしてきた民族であります。 これら世界に範となる民族性に今後も更に磨(みが)きをかけ、日本の文化・伝統を世界に発していく必要があるのではないかと思います。
そのためには、六年後となる東京オリンピック、パラリンピックを成功させることは日本にとって大きな機会になると思います。
多種多様な価値観がある中、国民の思いを一つに結ぶことも大事なことではないでしょうか。 中国、韓国のような政治利用ではない洗練された日本の国民の思い、和を世界に示すことができれば、更に日本国の価値を高めていくことになるのではないかと思うのです。
合掌
2014年1月21日
この度、当山では老朽化した閻魔堂を建て替えし、ボロボロに朽(く)ちた閻魔大王を修復することになり、約十ヶ月の期間を経て、無魔円成することができました。
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この機会に閻魔天について些(いささ)か調べたところを記したいと思います。 閻魔大王・閻魔様は「閻魔天」のことであり、全国各地の寺院でお祀りされており、大概は唐(中国)の官服を着た、いわゆる地獄の裁判官の姿をしているものが多い。 これに対して、密教における閻魔天像はインド様式の偏袒右肩(へんだんうけん)の姿であり、手には人頭杖(にんとうじょう)を取っている。 閻魔天が中国に渡り、中国思想(道教)の影響を受け、陰陽道的な要素も加わったものと思われます。
元々、閻魔は「ヤマ」といわれ、人間のうちで最初の死者になったものをいうとされています。 つまり、閻魔は「ヤマ」の音写であります。
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閻魔天には八眷属(はちけんぞく)がおり、閻魔妃・閻魔后・五道大神・太山府君(たいさんぶくん)・七母女天・毘那夜迦(びなやきゃ)・成就持明仙・茶吉尼天(だきにてん)をいいます。 この内、太山府君は閻魔十王の中、泰山王(たいせんおう)と呼ばれ十人の冥界王の一人に数えられるが、元々は中国の泰山の神で道教の神であります。 我々、智山派(幸心流)で用いる事相の次第にも出て来ます。 また、毘那夜迦は聖天様の実天(じってん:権実二天の内)であり、茶吉尼天は豊川稲荷(菖洞宗)で有名であります。 特に、毘那夜迦は聖天様ということで、閻魔天と縁日が同じ16日であります。
閻魔天の信仰は自分が死後、地獄へ落ちないためのものとされていますが、仏教の考え方からすれば、
「地獄へ落ちるかどうかは全て自分自身の業(ごう)によるもの」であり、「地獄へ落ちないように精進する信仰」でなくてはならないというのが本道ではないかと思います。 いわゆる、滅罪生善の精神であります。
この点が閻魔信仰の上で肝要なところかと思われます。 元来、閻魔天供は延命を祈るものであるとされ、本地仏は地蔵菩薩とされるために「延命地蔵菩薩経」を読誦します。
真言は「オン エンマヤ ソワカ」 南無閻魔天
合掌
2013年12月
10月2日、台風22号が関東に接近し雨が降ったり止んだりする中、栃木県足利市にある 鑁阿寺(ばんなじ) に参拝しました。
鑁阿寺は「足利の大日さま」といわれ、大日如来を本尊とし、敷地内は「史跡足利氏宅跡」として国の史跡に指定されており、平安時代末期から鎌倉時代初期に
源姓足利氏二代目の足利義兼により居館として築かれました。
「開基義兼公は足利義康の三子にして源頼朝の従弟。 そして室(奥方)は北条時政の娘、政子の妹、時子であり鎌倉幕府の創建に力を尽した。 晩年、高野山に入り剃髪(ていはつ)入道して本堂、鐘楼を始めとする七堂伽藍を建立し、源家相伝の大日如来を安置す。 又、一門子弟の育英のために足利学校を興(おこ)した」 とお寺の案内書に書かれています。
栃木県では日光東照宮や輪王寺に次ぐ名所旧跡ではないかと思います。
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境内中央には、室町幕府初代将軍足利尊氏の父・貞氏が1299年に再建した本堂があり、これは鎌倉時代の禅宗様建築を取り入れたものであり、
平成25年8月7日、「国宝」の指定を受けました。 本堂のほかにも鐘楼、経堂が「国の重要文化財」、
東門、西門、楼門、多宝塔、御霊屋(おたまや)、太鼓橋が「県指定の建造物」となっており、周囲を堀で回(めぐ)らせたその景観は往時(おうじ)を偲(しの)ばせるに十分な佇(たたず)まいであります。
創建当初は高野山の末寺、室町時代より江戸中期までは醍醐寺の末寺、江戸後期より昭和20年代までは長谷寺の直末(じきまつ)で、
戦後は真言宗大日派本山として一貫して真言密教の道場として法灯を今に伝えています。
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前々から一度は訪れたいと思っておりましたが、今年、本堂が国宝の指定を受けたのを機会に参拝した次第です。 境内は緑豊かに大樹が枝を大きく広げており、特に楠(くすのき)と境内中央にそびえる大銀杏(いちょう)が圧巻です。
明治期には広大な寺有地を政府によって没収されたと寺の案内人に聞きましたが、歴史の重みと幾多の苦難にも耐え今に法灯を繋(つな)ぐ大寺の姿に感じるところも少なくありませんでした。
私はいつも参拝する寺のご本尊さまにこれからもこの寺を護り多くの衆生を導いて欲しいとお祈りをします。 鑁阿寺のご本尊・大日如来にもいつもと同じようにお祈りをし、ふと内陣の隣を見ると聖天さまのお厨子(ずし)が見えました。 大日如来、聖天尊合わせてこの寺と真言密宗の隆昌を祈念して参りました。
合掌
2013年10月15日
前回、この「お寺便り」の中で「天部信仰」について少し触れた経緯があるので、今回、改めて天部信仰について思うところを述べさせて頂きます。
まず、「天部信仰は本道ではない」という考え方について。 恐らくは 天部の諸尊は仏法の守護神であるのであって、敬いこそすれ帰依するに値しないという考え方からきているのではないかと思います。
しかし、仏教が起こる以前のバラモン教やその後身というべきヒンドゥー教の頃より存在していた神々、天部の諸尊はやがて大乗仏教に取りこまれ護法神となり仏教を護る存在として崇敬されていくようになり、更に密教の出現によって、画期的な存在となったのです。
それは、顕教では天部尊はあくまで護法神たる性格にとどまるのに対し、密教においては本尊たる大日如来と本質において変りがないとされるのです。 あらゆる仏、菩薩、明王は大日如来の化身であって天部もその例外ではないのです。 これを「等流法身(とうるほっしん)」といいます。
密教の曼荼羅会上には数多くの仏が描かれていますが、仏部、蓮花部、金剛部、天等の区別はあるにせよ根本的にこれらの仏に優劣があるわけではないのです。 この密教思想によって天部の諸尊は初めて本尊となることができたのです。
顕教である日蓮宗では鬼子母神や大黒天等、天部を盛んに祈るが本尊は題目の曼荼羅であり、祈祷が盛んな禅宗においても豊川稲荷や秋葉権現が有名であるが、何れも本尊として祀られているわけではないのです。
これに対して真言密教では先程述べたとおり、あらゆるる仏、菩薩、明王、天部尊であっても本尊とすることができるのです。 又、たとえ本尊が天部尊であってもよいし、本尊として祀られなくとも天部を祈願することも差し支えないのです。 又、現に天部の仏様を本尊として祀っている寺は多くはないがあります。
このように述べてくると「天部信仰は本道ではない」という考えは密教の僧侶として甚だ理解不足と言わざるを得ないのです。
但し、いくら天部尊が大日如来と根本的に等しいといっても、天部には天部の供養の仕方があるのです。 根本的には大日如来であっても、今、天部の尊として示現しているのですから、その対応は自ずと天部の神としてなされなければならないのです。
天部には身分の高い、高貴な方に仕えるような忠誠心が必要といわれます。 聖天さまも「お舅(しゅうと)さんに接するようにしなさい。尊敬の念を持って接するように、しかしあまりに恐れて親しみがないようではいけない。」等と伝授の時に教わったものです。
又、お供物の一つ一つにも気を配り、行者自身が美味しそうだと思えるものをお供えする、そして何よりも聖天さまは穢(けが)れをきらうので行者も体を清浄にしておかねばならない等、種々の制約も多くあります。 葬式、法事をしなければならない多くの滅罪(めつざい)寺院に於いて天部の祈願を行うことは現実に仲々、難しい面もあります。
しかし私は種々の制約を乗り越えても直、天部の尊が好きなのです。 これは仏縁だと思います。
大分、話が長くなりましたが、私の言いたいことは、縁のある仏さまと真摯(しんし)に向き合い、会話をする中で私達の修行がなされていくのではないか、そして現当二世というが、現世利益のための祈願も立派な仏道修行に通じるものであると思うのです。
私はたまたま聖天さまと巡り合ったわけですが、それぞれに、縁のある仏さま、いわゆる別尊の中から普門総徳の如来を感じることができるというのが密教の考え方でないかと思います。 そのためには、我々密教の僧侶は縁ある仏さまとの「修法」を行じ、仏さまを輝かせて行かなければならないのではないかと思います。 それでなければ真言に身を置く価値がないのではないかと思います。
大分、偉そうな話になりましたが、天部に限らず諸仏、諸尊と自己との交流を図っていくことが必要であり、その極め付けが聖天尊を始めとする天部信仰ではないかと思います。
何故ならば、天部は直ぐに答えを出してくれるからです。打てば響くのです。 それが本当かどうかは、興教大師の言葉を借りれば正に「自ら修して知れ」ということになります。
合掌
※文中の仏画は「新纂佛像図鑑」より掲載しました。
2013年7月16日
6月11日、1泊の予定で聖天尊の総本山と言うべき奈良県にある生駒山宝山寺を同信の者、5名で参拝してきました。 近づいている台風の影響もなく天気に恵まれましたが、異常に湿気が強くむしむしとした天気の中、皆、本家本元の聖天さまに会うことを楽しみに京都より近鉄線を乗り継いで生駒のお山に登りました。
先ず、山門の階段下より続く御影石の奉納石柱の数の多さとそこに彫られた奉納金の額の多さに皆びっくり。 改めて聖天さまのお力の偉大さを認識させられました。 大鳥居をくぐり石段を上ると、そこからは山頂のあまり広いとはいえない境内を巧みに利用して作られた伽藍(がらん)が並んでいます。
「浄心」と書かれた水舎(みずや)で手を洗い口を嗽(そそ)ぎ、本堂にて本尊不動明王に灯明、線香をあげ参拝、そして、いよいよ隣にある聖天堂に入堂。 皆、真剣な面持(おもも)ちで暫(しばら)くの間、心誦(しんじゅ)にてお参りしました。
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生駒聖天 惣門 | 奉納石柱 |
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境内 | |
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聖天堂拝殿 | 中門 |
天堂の中は沢山の方がお参りをしているので声を出してお経をあげることはできません。 周りを見ていると聖天さまの信者は兎に角、真剣です。 中には両手を天に広げて大きく呼吸をしている女性、只(ただ)ひたすら手を合せ祈り続けているひと、私は今回で4回目の参拝になりますが、一口で言うと「感応道交難思議(かんのうどうきょうなんしぎ)」の世界を感じます。 「感応道交」とは、聖天さまと一つになる、結ばれるという意味です。そして、その聖天さまとの感応は我々の思慮を超(こ)えているのです。
天部信仰は、本道では無いなどと言う輩がおりますが、逆にそのように言う者こそ真言密教の本質を知らない者と私は思います。 仏法の守護神である天部の諸尊も明王も菩薩も皆、本質的には如来と等しいのです。その本質を良く理解し得ない者は真言の僧侶とは言えないと思います。 天部信仰こそ密教の真骨頂(しんこっちょう)であると信じています。
余談はさておいて、天堂をお参りした後、年輩者はお休み処で休憩し、その間、若い人2人は石段を更に上り奥の院へ参拝をしてきました。 勿論、私は若いとはいえない年齢ですので暫くの間、涼風に当り一服を決めこみました。
その後、参拝を済ませた満足感に浸(ひた)りながら一路、京都へ。 夜は親睦を兼ね東山の静寂な食事処で京料理に舌鼓(したづつみ)を打ち、楽しい一時を過ごしました。
翌日は、午前9時30分にホテルに愛染明王を制作依頼している仏具店の若さんが迎えにきて、仏師の工房で仕上がりを確認する予定となっていました。 ここで他の2名と別れ我々3名は予定通り工房へ向い、早速、愛染明王と初対面となりました。 まだ開眼されていない仏像なのに正面より見ていると背中がジーンときて、その迫力に負けそうな感じになりました。 「手直しがまだできる状態なので何か注文はありませんか?」との仏師の問いに「全くありません。完璧な仕上がりです」と答えました。 一緒にいた他の者も同感でした。
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彫刻が完了した愛染明王 |
そこに居るだけで人を教化する、黙っているだけで何かを語りかけてくる仏像の本来の姿を感じたような気がしました。 これより数ヶ月を掛けてお化粧の段階に入ります。檜木(ひのき)の木目細(きめこま)やかな地肌に、これから漆(うるし)を塗り彩色(さいしき)をかけ愛染明王本来の赤色に輝く姿となって我寺にいらっしゃるのは10月の上旬になるとのことです。
再会を約して、我々は智山派総本山智積院へ。同行の師の子弟が専修学院で4月より1年間の修行生活をしておられるので皆で激励の挨拶をして参りました。
その後、帰宅するにはまだ時間に余裕があるので、智積院と道を隔(へだ)てて反対側にある「養源院(ようげんいん)」へ参拝しました。 この寺は、豊臣秀吉の側室・淀殿が父・浅井長政の追善のため建立し、長政の院号を寺号としたものであります。 その後、火災にて焼失したので徳川秀忠が夫人お江与の方の願いにより伏見城の遺構を用いて再建したのが現在の本堂となっています。 伏見城が西方(にしがた)によって落城した時、徳川方の鳥居元忠らが自刃(じじん)した廊下は供養のため天井に上げられ「血天井」として有名です。 この他、俵屋宗達による杉戸絵、狩野派による襖、絵等、桃山時代より江戸初期にかけて活躍した画家による作品が多く残されており、「隠れた名所」と言ってもよい寺です。(私は若い頃より何回となく参拝に訪れました)
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俵屋宗達筆 白象図(杉戸) | 俵屋宗達筆 唐獅子図(杉戸) |
但し、今回我々がこの寺を訪れた理由(わけ)は、この寺に聖天さまがお祀りされており、その聖天さまは豊臣秀吉が伏見城で守り本尊にしていたもので、一目、お参りがしたかったからであります。 ただ、残念なことに聖天さまは、御簾(みす)の奥深く祀られており、外陣よりひっそりとお参りをし、京都を後に致しました。
生駒に登り、愛染明王と対面し、総本山にて修業のお見舞い、そして秀吉公の念持仏を参拝と色々、内容の濃い1泊2日の旅でした。 日頃、自坊での檀務と修法中心の生活ですが、たまに外に参拝に出かけることは、良い意味での刺激になり更に精進を誓う機会となりました。 同行の者に感謝、多謝。
合掌
2013年6月16日
本年正月より突如として「愛染明王」が頭の中から離れず、常に意識の中に在る状態となりました。
平たく言えば「心引かれた」という感じです。 それまでは特別の感情もなく愛染明王がどんな仏であるのかさえ詳しい知識もなかったのです。 自分自身でもこれがどんな事を意味しているのか分らず、これが仏縁なのかと漠然(ばくぜん)と思っていました。
そんな日々を1~2週間過ごしていた折、最近付き合いを始めた京都のある仏具店の若さんがひょっこり顔を出しました。 そこで愛染明王について話をした所、現在ある関西のお寺が愛染明王を注文していて、もうすぐ完成すると聞き、スマホで撮ってあった写真を見せてもらいました。 その像は、高野山金剛三昧院の仏をモデルに彫刻したものでした。 これもまた不思議な縁であり、やはり当山に御祀りしなさいと言われているような気持ちになり、早速、仏像制作の話に移り、大きさ、姿、形等の尊容を検討することになりました。 そして、この文を書いている現在、既に発注をし、今年の10月末から11月上旬までに完成する予定となっています。 今でも非常に不思議な感じであり、この表現できないところが、いわゆる霊験といったものなのかと思ったりしております。
愛染明王は、金剛薩た(た=土辺に垂:こんごうさった)が姿を変えた仏とされ、サンスクリット語では「ラーガ・ラージャ」です。 「ラーガ」とは、赤色、愛欲の意味で愛欲染着の意を名としています。
密号は「離愛金剛」~愛欲を離れ大欲に変化せしむ意です。 つまり、愛染という名の通り、愛情、情欲を司り、愛欲貧染をそのまま浄菩提心(悟りの心)に変える力を持ち、煩悩即菩提を象徴した明王なのです。
人間には様々な欲望がありますが、この欲望は人を滅亡へとかりたてる力を持つこともあるが、逆に生きていく上での活力源となり様々なものを発展、高める力ともなります。 この両刃の剣である欲望のエネルギーを悟りを求めるエネルギーに浄化しようというのが愛染明王の教えです。 正に密教の仏であると思います。
その姿は宝瓶に活けられた蓮華座の上に、真赤な円相を光背にして結跏趺坐(けっかふざ)し、
頭部には獅子冠(ししかん)を頂き一面六臂三目(いちめんろっぴさんもく)の忿怒尊(ふんぬそん)であります。 六本の手には、五鈷杵(ごこしょ)、五鈷鈴(ごこれい=息災)、弓矢(敬愛)、蓮華(根本無明を降伏)を持ち、台座の赤蓮華は敬愛、宝瓶は増益の徳を表しています。 しかし、その本質は「敬愛」ではないかと思います。 西洋のキューピッドとよく喩えられたりもします。 そして、六本の手は六道界全てを救う意であり、五鈷杵・五鈷鈴は金剛薩た、弓矢は金剛愛菩薩を象徴しているのであります。 不動明王が胎蔵界を代表する明王であるならば、愛染明王は、金剛界を代表する明王であるといわれる所以であります。
しかし、弘法大師によって日本に伝えられた愛染明王は、平安・鎌倉時代以降広く信仰されるようになりましたが、金剛界・胎蔵界の両部曼荼羅にその姿は描かれておりません。 弘法大師が唐から伝来した「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)」の所説に基づき作られた明王なのです。 この点は特異な仏であるといえます。
以上、愛染明王について概略の説明を試みましたが、この明王は密教中の密教の仏であり、真言、天台でしか教理的には祀られないのではないかと思います。 また、仏師の間では「愛染明王を彫ったら命をとられる」といわれるほど、ご利益がある代わりに恐ろしい仏であると言われております。 この辺は聖天さまと同じ言われ方であり、共通している点も多いと思います。 「愛染聖天」と言う名前の聖天さまを本尊として、特に「敬愛法」を以って祈祷しているお寺をネットで見た事がありますが、愛染明王と聖天さまの関係についてご存知の方がおられましたら、一報頂きご教示願いたいと思っております。
合掌
2013年4月10日
今年も早いもので、もう既に春の彼岸を迎え、沢山の方がお墓参りにみえました。 三月は特にご法事も多く、毎週の土日は多忙な日々を過ごしました。
そこで、真言宗の重要な経典で、常日頃、お葬式や回忌法要等のご法事をはじめ、多くの機会に読誦される「理趣経(りしゅきょう)」について些(いささ)か想うところを記したいと思います。
正式な経題は「大楽金剛不空真実三摩耶経(般若波羅蜜多理趣品)」といい、その名のとおり「大楽(たいらく)思想」を説いたものであります。 このお経は、その大楽なるものを「妙適(びょうてき)」に始まる十七清浄句を以って説いているのですが、この句が所謂(いわゆる)、男女の性愛、或いは肉体的快感の極致であるというような解釈をしたものたち(真言立川流)がいて、世間で理趣経について誤解を生んだこともありました。
これを説明すると長くなりますが、端的に言えばこの経は普通のお経とは根本的に次元が違うのであります。 真言宗の根本本尊である法身大日如来が「第六天の他化自在天王(たけじざいてんのう)の宮殿」で説法されたものなのです。 「他化自在天」とは、仏教で説く十界の中、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道(欲界ともいう)の最高世界である天界の更に最高である第六天の世界であります。 六道は善悪の果報によって生れる世界(世間という)であり、その中で最高の善事を行ったもののみが、その果報として生れる世界が他化自在天であります。
史上の釈尊の説法に集(つど)う聴衆は、弟子である比丘(びく)や菩薩、更には天、竜、夜叉(やしゃ)等、鬼神の類(たぐい)もいるが、あくまで釈尊の弟子たる比丘衆であります。 これに対して、現実世界を超えた他化自在天における法身大日如来による説法の聴衆は、金剛手菩薩や観自在菩薩、虚空蔵菩薩等の八人の菩薩に代表される八十億の菩薩衆のみであります。
それは、とりもなおさず理趣経を読誦するものもまた菩薩でなければならないということになります。 理趣経を読誦するということは、そのまま大日如来の説法を聞くことに他ならないからです。
我々、真言行者は修法する時に、必ず先ず始めに「金剛薩た(た=土辺に垂:こんごうさった)の威儀(いぎ)に住すべし。心にウン字を観じて薩たの身となり、足に蓮華を踏むと想え、」と観想し、仏のみ足を礼し奉るのです。
金剛薩たとは、大日如来がこの世における衆生救済の活動を人格化したものと考えられます。 であるならば、理趣経を読誦する時は金剛薩たの威儀に住し、満ち足りた「一切の如来が常に遊処して吉祥と賞嘆し給う大魔尼殿」の風光を感得しようと努めなければならないのではないかと思います。 しかし、そのためには常日頃より真言行者にとって、かえがえのない「修法」を行うこと、 それも「加持感応」の世界がなければ、十七清浄句も単なる絵空事の世界としか映らないのではないかと思います。
何となれば、仏教の最大目的は自らの心を清めるということに他ならないと思うからです。 そして、修法の作法一つ一つが自らの心を清らかにし、外なる本尊を内なる自身の心へと遷座(せんざ)せしめ、更には自心の内証へと導いてくれるものであると信じるものです。
理趣経を読誦する時、更に心を澄ませ、至心に仏の風景を感じることができるようにと乞い願う次第です。
合掌
2013年4月1日
新年明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願い致します。
今年も新年を迎えた正月の二日より聖天尊の浴油供を修行いたします。 元日午前0時より本尊不動護摩供を修行するので、昨年より正月の二日から開白とすることにしました。
聖天尊の浴油供は毎月、開白前日の夜の香湯供(洗浴)に続き、翌朝、午前3時に起床、午前4時より約2時間程の修法になります。 浴油供を修するまでは、早朝の浄水をく汲んで華(樒)を浮かべて供える「華水供(けすいく)」という供養法を約二千座、修して参りました。
流派によっては、浴油供を修する前に華水供を千座行うとか、十一面観音法を前行として行わなくてはいけないとかあるようであります。 何れにしても初心の者がいきなり浴油供を修することはできないのであります。
まだ一ヶ年だけの浴油供ですが、この浴油供を修していると、本当に密教の醍醐味というか、護摩法よりも神秘的な感覚になります。 聖天さまを自分の手でとり(直接、触ってはいけないので浄紙を使う)、多羅(たら=香油が入っているナベのようなもの)に安置し、真言を唱えながら適温に温めた香油をみ頭(くし)に灌(そそ)ぐ時、聖天さまのお顔が喜んで笑っているように思えるのです。 私はいつも、この喜んでいるお顔、即ち歓喜のお姿に心が震えるのを覚えます。 そして、次の浴油供には今日よりもっと喜んで頂けるようにと念じるのです。
この浴油供は、総じて息災供(そくさいく=災いをとめる、やむ)の真言を唱えるようになっております。(真言宗に於ては四種法といって、息災、増益、敬愛、調伏の法がある。そして、それぞれに色が決っている。)息災を表わす色は白色です。
そこで私は今年より白色の法衣を着用して浴油供を修行しようと思いたちました。 又、白は覚悟の色であります。不退転の意を示すためにも白の法衣を身に付けようと思ったのであります。
今、また大震災の発生が予測されている中、日本国、そして、寺や信者さんの息災を祈るためと、自分自身の不退転の意を以って本年も祈りを捧げていきたいと思います。
2013年1月1日
合掌
かねてより(約1ヶ年前)依頼しておりました聖天堂に奉納する日本画が完成し、来る11月6日(1日のみ)、聖天堂に奉納する前に書院に於て檀信徒にお披露目を致します。
この画は聖天堂建立を記念して住職が奉納するもので、図柄は「鳳凰(ほうおう)」、一対の形をとり一枚の画は横180cm、縦180cmの大きさで壁に直接取り付け、障壁画の形とするものであります。
この画を描かれたのは高知県須崎市在住の片岡宣久画伯であり、約1年の歳月をかけた画伯渾身(こんしん)の作であります。
題材として、私からお願いしたのは「鳳凰」であります。
鳳凰は本来、聖徳の天子の兆(きざ)しとして現われるとされており、古来、中国では麒麟(きりん)、亀、龍と共に四瑞(しずい=
四つのめでたい印)として尊ばれた想像上の瑞鳥で五色絢爛(ごしきけんらん)の姿をしております。
桐(きり)の樹に住み、竹の実を食し、醴泉(れいせん)を飲むといわれています。
鳳凰の画で著名なのは、京都御所の障壁画である「桐竹鳳凰図」(狩野永岳筆)であり、当時天皇が日常を過ごされた御常御殿(おつねごてん)の上段の間に描かれております。 このように本来は天皇家に深い係わりのある鳳凰でありますが、一説に依ると鳳凰はガルーダ、金翅鳥(こんじちょう)と同一視され、その象徴たる迦楼羅(かるら)は大自在天の化身であり、聖天尊の男天と本地は等しいとされております。
このような由来を知ったのは、実はこの画を片岡画伯に依頼した後のことであり、聖天尊の導きを深く感じることとなりました。 この当山の鳳凰図画は大変素晴らしい出来映えであり、特に雄(オス)の鳳(ほう=向って右側)に答えるように雌(メス)の凰(おう=向って左側)が振り返っている様が印象的であります。
これより永く聖天尊をお護りし当山の宝物となることと思います。
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凰 | 鳳 |
聖天堂に奉納後の鳳凰図 | |
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片岡宣久画伯 略歴
1943年(昭和18年) 高知市に生まれる
1969年(昭和44年) 日本美術院展初入選 以後 秋季13回 春季10回入選
1970年(昭和45年) 東京芸術大学美術学部大学院(日本画科)修了
(田中青坪教室)
1973年(昭和48年) 道玄坂センタービル画廊(渋谷)にて個展
1974年(昭和49年) 浜幸画廊(高知市)にて個展
1977年(昭和52年) 四枝会展出品(東京資生堂ギャラリー)(以後2回)
1978年(昭和53年) 東京セントラル美術館日本画大賞展入選
1980年(昭和55年) 遊星展出品(東京資生堂ギャラリー)(以後3回)
高知大丸にて個展(同85年、87年、90年)
1981年(昭和56年) 大手町画廊にて個展(東京)
1982年(昭和57年) 高知県立郷土文化会館賞展出品(以後5回)
1984年(昭和59年) 日本画その明日への展望展出品(池袋西武)
1986年(昭和61年) 栗原画廊にて個展(東京)(同88年)
1987年(昭和62年) 丸広百貨店にて個展(埼玉)
1988年(昭和63年) 伊勢丹百貨店にて個展(埼玉)
1989年(平成元年) 阪神百貨店にて個展(大阪)
以降、地元高知大丸にて個展多数
2012年11月1日
合掌
当山は過去帖に記されている所より、 應長元年(西暦1311年)に示寂された宥阿上人を開山としております。 よって昨年(西暦2011年)に開創700年の正当年を迎えました。
この記念すべき年を迎えるに当り、聖天堂・庫裡等の建設を進めて参り、本来ならば昨年5月7日に落慶式を挙行する予定でありましたが、3月11日の東日本大震災の影響を考慮して延期をし、本日、ここに縮小した形で落慶の祝いを迎えることになりました。
被災地では復興のきざしが見えつつもまだまだ大変な状況下にありますが、犠牲になられた多くの方々のご冥福と被災地の一日も早い復興を併せてお祈り申し上げております。
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顧みまするに、小衲、昭和54年に晋山以来、平成3年に本堂、山門の落慶式を執り行い、平成6年、頌徳会館、平成14年には鐘楼堂の建立、そして更には今回の700年を記念して聖天堂、庫裡の建設と、寺の機能の一層の充実という見地より山容整備に力を注いで参りました。 これらの諸々の事業が円滑に遂行できたのは偏に総代・世話人を初め檀信徒のご信援の賜とここに、深く感謝申し上げます。
これらによって、当山700年の寺歴に相応しい山容を持つに至った訳であり次世代に末永く継承されていくものと信じるところであります。
この700年という歴史の重みを噛みしめ、今後、更に寺としてその役割を充分に果たせるよう精進して行く所存であります。
皆さま方の今後、益々のご指導とご協力をお願い申し上げ御礼の挨拶と致します。
2012年4月14日
合掌
皆さま、新年明けましておめでとうございます。
昨年は本当に多難な年でありました。 今年は色々な面で日本が復興、再生の年になりますようお祈り申しあげます。
私も30年来、聖天尊を信仰して参り、この度、念願の聖天堂を建立することができました。 今までは本堂右脇間にお祀りしておりましたが、新たに本堂の右奥、庫裡の北側に建設しました。
この場所は寺の鬼門に当り、聖天尊をお祀りするのには最適と思いました。 鬼門に聖天尊を祀り守護神としてお寺を護ると考えたのです。
又、天堂を建立することにより聖天尊最高の供養法である「浴油供」を修することが可能となりました。 浴油供とは一般の者の前で行うことは許されない師資相承、密教最奥の秘法であり、全国でもこれを毎月、厳格に修している寺は恐らく数える程しかないのではないかと思います。
簡単に説明すると「適温に温めた胡麻油を天尊の御頭(みくし)にそそぎ、それによって天尊は大いに喜び益々その威光を顕し、仏法の興隆、守護に大いに力を発揮される」というものです。
元々、聖天尊は弘法大師が唐より持ち帰られたものであり、その「御請来目録」にも明記されており、興教大師も「歓喜天講式」を著し、聖天尊の威大なる徳を述べられておられます。
当山では、本年1月より月に3座、この浴油供を修していくことと致しました。 参拝されたい有縁の方がおりましたら寺務所までお声を掛けてください。(境内より直接、参拝はできません。)
では、これより前述しました仏法興隆、密宗興隆、日本の復興を天尊に謹んでお祈り申し上げて行きたいと思います。
南無大聖歓喜双身天王
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2012年1月5日
合掌
11月16日より2泊3日の日程で、真言宗智山派「総本山智積院」を参拝して参りました。 参加者は密蔵院、正源寺、泉蔵院三ヶ寺の檀信徒総勢92名であり、バス2台に分乗して16日、早朝6時に一路、羽田空港に向いました。
羽田空港より広島空港に降り立ち、先ずは最初の訪問地「広島平和記念資料館」、「原爆ドーム」を見学、戦争、特に原爆の恐ろしさと悲惨さを改めて確認、資料館では、皆、言葉の出ない様子でありました。 亡くなられた多くの被害者に黙祷、「同じ過ちは二度と繰り返しません」の言葉を心よりお唱えして参りました。
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<原爆ドーム> | <平和記念碑> | <平和記念資料館> |
その後、広島市内の食事処で広島名物、お好み焼きに舌鼓(したづつみ)を打ち、バスは世界遺産「安芸の宮島」へ。 船にて約10分、海から望む「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」は平清盛の時代も同じ風景だったのかと、古(いにしえ)の時代にしばし想いを募らせる一時でした。 船が着くと直ぐに厳島神社への参拝となりました。 厳島神社は過去、数度の台風による被害を乗り越え、今も水面(みなも)に雅(みやび)
な姿を映しており、特に朱色に輝く大鳥居は潮の満ち引きにより歩いて行くこともでき、今回は翌朝の干潮時に多くの人が歩いてこられました。 又、今回は時間の関係で行くことができなかったのですが、宮島にはロープウェイがあり、原生林を越えた山中に、弘法大師が護摩を焚かれたお堂があり、その護摩の火は今に消えることなく灯され続けております。(私は10年ほど前にお参りをしてきました)
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<厳島神社> |
翌17日、朝8時15分、投宿したホテルみや離宮を出立。 宮島に想いを残しながら、今回の旅の目的である京都総本山智積院へと新幹線に乗車し、日中参拝(午後1時よりの法要参拝)をして参りました。 金堂での法要には密蔵院、泉蔵院の御詠歌講により「総本山智積院讃仰和讃」「同行和讃」が奉詠され法要に花を添えました。 法要後、今年、能化様にご就任された寺田信秀大僧正猊下より、智積院が今まで多くの先師方により見事に興隆、復興を遂げられたお話を伺って参りました。 本年、92歳をお迎えになられたとは思えない矍鑠(かくしゃく)としたお姿に一同感銘を受け心より敬意を表して参りました。 今後も我々末徒にお導きをお願い申し上げます。
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<総本山智積院での御詠歌奉詠> | <能化様より記念章を奉る> |
本山での法要、参拝を無事に済ませ、部長方のお見送りを受けながら、バスは特別拝観中の「東寺」へ。 特に講堂内の立体曼荼羅に皆さんの関心が集中していました。 東寺よりは琵琶湖を目指し、湖畔にある緑水亭に宿泊。 その夜は、本山参拝を済ませたこともあり、料理にお酒、カラオケにと興じ、大いに盛り上りました。
翌、最終日18日は、先ず西国札所である「石山寺」に参拝、残念ながら多宝塔は工事中のため見ることはできませんでしたが、代りに紅葉を楽しむことができました。 次に、築城400年を迎えた国宝「彦根城」を見学、続いてNHK大河ドラマ「江」の活躍の舞台となった「長浜」の散策、思い思いに昼食をとり、主な行程を消化することができました。
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<東寺・講堂> | <石山寺・山門> |
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<石山寺参拝> |
米原より新幹線にて帰路につき、東京駅よりバスにて各寺に向い、めでたく解散となりました。
今回の団参は特に参加者が多く行き届かない所もあったと思いますが、何らの事故も体の具合の悪い人もなく、又、天候にも恵まれ和気藹藹(わきあいあい)とした雰囲気の中、無事、所期の目的を果たすことができたのではないかと思います。 お世話になった多くの方々に心より御礼申し上げますと共に、次回にも是非、大勢ご参加頂きますようお願い申し上げ、参拝の記と致します。
2011年11月25日
合掌
去る7月28日に、日本三大聖天の一つに数えられる埼玉県熊谷市にある「高野山真言宗妻沼聖天山」(めぬましょうてんざん)に参拝してきました。
三大聖天とは、奈良「生駒聖天」(いこましょうでん)・東京浅草「待乳山聖天」(まつちやましょうでん)と妻沼聖天をさし、それぞれ大聖歓喜天尊(聖天さま)を祀る著名な寺であります。
これらの寺には今まで何度となく参拝をしてきましたが、妻沼聖天では国指定重要文化財である御本殿の保存修理工事が、平成15年より8年の歳月と13億5千万円の巨費を費やして終了し、本年6月より一般公開されたため、その完成した姿を一目見ようと訪れたものです。
当日は生憎の雨がちらつく曇天でありましたが、この豪華絢爛たる彫刻彩色は日光東照宮を彷彿とさせる見事なものであり、見る者を圧倒する正に国の重要文化財でありました。皆さんも一見、必見の価値ありです。
この妻沼聖天は、平家物語などで武勇に秀れ義理人情に厚い人柄が称えられている「斉藤別当実盛公」が当地の庄司として祖先伝来のご本尊、聖天さまを治承3年(1179年)にお祀りしたのに創まり、次いで実盛公の次男「斉藤六実長」が出家して、建久8年(1197年)に本坊の歓喜院を開創したのが縁起であります。 ご本尊は錫杖の中央に祀られているので、「御正体錫杖頭」(みしょうたいしゃくじょうとう)として国指定重要文化財であるが、秘仏であります。
そもそも、聖天さまは弘法大師が唐より密教とともに仏法の守護神として請来され(御請来目録にも書かれている)、福運厄除の神として信仰されております。 特に縁結び、夫婦和合、商売繁昌などに霊験あらたかであり、また大変熱心な信者さんがいることでも有名であります。
私も聖天さまを信仰してより早くも30年にならんとしておりますが、今までの間に様々なご利益を頂戴して参りました。 故に、聖天さまのご利益については私自身がよく承知しており、今後もうまず、たゆまず聖天さまの意に叶うよう精進して参りたいと思っております。
そこで今回見学してきた本殿の彫刻の中に、日光の眼り猫で有名な「左甚五郎」(四世か五世)が彫った「鷲と猿」の解説を紹介し、聖天さまのご本誓をお示ししたいと思います。
2011年8月
合掌
今、宮城県と福島県にわずかながら救援物資を送る作業を終えたところです。
東北関東大震災で被災され、亡くなられた多くの方々の御魂に合掌し、家を失い、家族を亡くし、生きる望みを失っている大勢の方々には、かける言葉も見つかりませんが、故郷の復興を見届けるまでは頑張って頂きたいと切に願うものであります。
3月11日 午後2時46分、これからは「311」という数字は忘れることのできない、アメリカでテロが起きた「911」よりも脳裡に深く刻みつけられたものとなるでしょう。
気の利いた慰めの言葉よりも、まず実行、私たちひとりひとりが今、何を為すべきかを試される時と言えるのではないでしょうか。
それは分かっていても、できる事には限りがあります。できる中で応分の施しをすることが大事なことではないかと思っています。
そこで、改めて「六波羅蜜」を想い出しました。
精進波羅蜜(しょうじんはらみつ)
不断なく精進せよ!
忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)
苦難に出会っても、耐えぬくこと!
布施波羅蜜(ふせはらみつ)
お金や物だけでなく、思いやりの心も分け与えよ!
こう書いてきて、仏さまの教えが今ほど鋭く、心に突き刺さる時はなかったような気がします。
この教えの全てを被災者の方々を始め、救援している人たちが実行していると思うと、頭の下がる思いで一杯になります。
特に、福島第一原発で作業をしている東京電力社員、東京消防庁を始め、消防関係の方々、自衛隊員、警察関係の方々、命がけの働きに深く感謝申し上げます。
私は、本尊様と聖天様に毎日これ以上の被災が広がらないように、早く原発も治まりますようにと祈るばかりの日々です。
18日に福島原発に向かった東京消防庁のハイパーレスキュー隊の総隊長は、奥さんに「これから出動してくるよ。」とメールをしたところ、「日本の救世主になってください。」との返事・・・感涙にむせぶシーンでありました。 この夫にして、この妻あり。「日本はまだまだすてたもんじゃない」と思ったのは、私だけではないと思います。
この先も、日本にはどんな困難が待ち受けているか解りませんが、みんなの団結力で、みんなの知恵で立ち向かって行けば、日本の復興は果たせると思うのです。
逆境をチャンスにと願わずにはおられません。
2011年3月26日
合掌
新年あけましておめでとうございます。
仏誕2577年・西暦2011年・平成23年辛卯の年を迎えましたが、本年が皆さまにとって卯年にあやかり大きく飛躍の年になりますよう、お祈り致します。
本年は当山にとっても、開創700年という記念すべき年であります。
西暦1311年・応長元年(鎌倉時代後期)の開山より700年正規の年に当ります。
この開創700年という記念すべき年に、聖天堂・庫裏の建設、さらには第2草加聖地霊園の開設という大事業を魔事なく結願することができました。ここに有縁の皆さまに心より感謝申し上げますと共に、この勝縁に廻り会った不思議さに感謝し、檀信徒の方々と思いを一つにして祝意を表すことができればと、来る5月7日(土)に落慶法要を執り行うこととなりました。
檀信徒並びに有縁の皆さまには、是非、ご参列頂き、御本尊並びに諸仏菩薩との仏縁を深く結んで頂きたいと念願するところです。
落慶法要の詳細につきましては、ホームページの「お知らせ」をご覧ください。
合掌
(2011.01)
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10月7日(木)、かねてより念願であった埼玉県日高市にある聖天院・高麗神社参拝に行ってきました。
その途中、有名な巾着田(きんちゃくだ)がありました。
市内を流れる高麗川の蛇行により作られた形が巾着(きんちゃく)に似ているところから、巾着田と呼ばれる総面積22haに及ぶ平地には、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が群生して、辺り一面が真紅に染まっていました。
曼珠沙華は、別名・彼岸花(ひがんばな)とも呼ばれ、秋の彼岸の時期に花を咲かせるのはご存知のことと思います。
泉蔵院周辺も昔は沢山咲いていましたが、宅地開発と共に段々少なくなり、今は境内で見る他はなくなりました。
彼岸花の地下茎にはでんぷんが含まれ、水にさらすと食用になり、昔は飢饉(ききん)に備えて田んぼのあぜ道に植えたと言われています。 また、その球根の部分には、リコリンと呼ばれる有毒成分アルカロイドがあり、誤食すると神経麻痺や嘔吐等を起こすことが知られています。 子供の頃、家人より火事花と言って、家の中に入れると火事になると言われたことを思い出しましたが、その有毒作用に注意する意味もあったのではないかと思います。
一面、赤絨毯を敷き詰めた巾着田より車で5分程の所に、真言宗智山派・高麗山聖天院はありました。
7世紀の中頃、朝鮮半島で700年に渡り盟主として栄えた高句麗は、唐・新羅の連合軍により滅亡するが、その時、国を失った人々は日本にも亡命し帰化をしたのです。
その中に、高句麗の王族の血を引くといわれた高麗王若光は大和朝廷に出仕し、従五位下に叙せられ、現在の日高市を中心とする地域に設置された高麗郡の初代郡司に任命された。
その若光が亡くなった後、念持仏であった聖天尊(しょうてんそん)を本尊として建てられたのが聖天院です。
現在の聖天院は、全ての伽藍整備が終わったようで、山の中腹に建てられた間口十三間の本堂を中心に雄大なスケールを感じさせる荘厳(しょうごん)な佇まいのお寺であります。
私は、聖天尊をお参りしたかったので、何処にお祀(まつ)りされているのかと捜しておりましたら、天堂ではなく本堂内左側にお祀りされていました。 現在は不動明王(ふどうみょうおう)を本尊としているとのことでした。
今から1300年以上前に、帰化した朝鮮民族の人々に思いを馳せ、現在も韓国人を始め、朝鮮系の人々がお参りされたり、色々な催物も開催されている話を聞き、民族の誇りや結びつきを改めて感じさせられました。
それに較べて、我々日本人は戦後、民族の誇りといったものを余り考えたりすることが少ないように感じられます。敗戦により国家神道を中心とした民族的なものの考え方が否定され、民主教育の名の元に日本人としての誇りまで捨てさせられたと言ったら言い過ぎになるでしょうか。 別に国唯主義を唱えようとしている訳ではなく、日本の歴史や文化を見つめ直し日本人としての誇りが持てるような、そんな教育がなくてはならないのではないかと思います。 そして、それぞれの民族の誇りをお互いに認め合い大事にする。そんな中から真の国同志の和合が得られるのではないかと思います。
それは、弘法大師の説かれた曼荼羅(まんだら)の思想とも合致するのではないでしょうか。
合掌
(2010.10)
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今年の夏は当初、冷夏の見込みと言われていました。
5月から6月の梅雨の間も肌寒く、初夏とは思えない気候が続いていたので無理からぬ予想であったと思います。
しかし、予想に反し梅雨明けした7月17日以降、関東では連日の猛暑に見舞われ未だ気温が下がる見込みはないようです。特に岐阜県多治見市では今夏最高の39.4度を記録、我が埼玉県でも熊谷市では連日の高温を記録中であるとか。
この高温による被害も拡大しており、17日~25日までに熱中症で亡くなった人は81人、その大多数が65歳以上の高齢者であり、しかも室内にいたケースが半分以上でした。
老人の死亡率が高いことと室内での死亡が多い理由については、今の住宅は気密性が高く風通しが悪いこと(窓を閉めてエアコンをつけないでいたケースが多かった)や独り暮し、日中独居(昼間だけ独り暮しになる)の老人が増えていること等が揚げられると思います。高齢になると暑さの感覚が自分では感じにくくなるようです。そこには高齢社会の縮図が見てとれる感じがします。
7月末現在での、今年の夏の様子を取り上げてみましたが、昔の日本の夏はどんな感じであったのか?(昔といっても60年しか生きていないので、その中での話です)
昔の日本の家屋は殆んどが瓦屋根で、今の家のように気密性は高くなく、しかも細かく部屋がしきられてなく壁は土壁で暑さを遮断するという意味では優れていたように思います。(それはあくまでも暑さの面から見ただけで冬の寒さや地震対策となると話は別になると思います)
また、暑さに対して感覚的に(五感で)対処というか消化しようと努力していたように思えます。視覚的には朝顔を吊るしたり金魚鉢に金魚を泳がせたり、聴覚的には風鈴の音を楽しんだり、味覚ではかき氷を食べたり涼しげな料理を作ったり、或いは打ち水を打ったり浴衣を着て下駄を履いたりと。
さしずめ浴衣や下駄はクールビズの元祖ともいえるのかなと思います。
別に昔の方が良かったと言っている訳ではありませんが、懐かしさを込めて今の時代と比べると、昔の方が知恵を生かし、夏を全身で楽しんでいるような感じがします。
そうそう、お盆も夏の代名詞として忘れてはいけませんよね。
今、ここにいる私はご先祖のお陰。
「私がいてあなたがいる」のではなく「あなたがいて私が存在している」
という考え方。この考え方が仏教なんですよね。
お盆には家族みんなで浴衣をきて、お墓に亡くなった方のみ魂をお迎えに行く、こんな光景が見られたら実に平和だろうなと思う今日この頃です。
合掌
(2010.08)
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今年は、気候不順で四月は寒暖の差が激しく、一日で十度の差があることも度々あり、おまけに雪まで降りました。五月に入り、ようやく初夏らしい天気が続きホッとしている今日この頃です。
お墓の入口に植えた何株かの牡丹(ぼたん)もたわわな花を咲かせています。あまりに見事なので、シャッターを切ってしまいました。
牡丹といえば、近在では西新井のお大師さん(西新井大師)や上野公園内の東照宮が有名であり、今頃は丹精込めて育てた花が多くの人を楽しませていることでしょう。
昔の女性を表す言葉で、「立てば芍薬(しゃくやく)座れば牡丹 歩く姿は百合の花」という言葉があったのを想い出しました。
理想の女性像を花に例えて言ったものだったと記憶しています。
もう既に、死語になっている感じもしますが、改めて考えてみると、今の時代にも通用する表現なのかなとも思います。
可憐でふくよかで清楚な女性。まあ、これはいつの時代でも理想を追い求める男性の心情かも知れません。
また、これらの花は日本画の題材としてもよく使われるもので、特に牡丹は多くの日本画の巨匠も好んで描いております。
当山でも書院・客間の襖に、この度四季の花をテーマに日本画を描いてもらおうと、旧知の画伯に製作依頼したところです。完成した折には、檀家の皆さま方にも見て楽しんで頂けたらと思っております。
花は何の雑念もなく無心に咲く。
その心は人間の心よりも気高く貴い感じがします。
また、散るべき時が来たら、ためらいもなく、一途に散っていく。
(因みに牡丹の花の散るさまは、散るとは言わずに崩れるといいます。本当に崩れるようにフワフワッと散っていきます)
最近の政治家に見倣って欲しい気がするのは私だけでしょうか。
合掌
(2010.05)
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最近、テレビで「パワースポット」の紹介等という番組が目に付きます。どんな番組かと見てみたら、大体、神社関係の案内が多いようです。どこどこの神社、或いは境内はパワーを感じるとかパワーに満ちているといった感じであります。
元々、神社やお寺は神仏のお祀りされている所であり、そこには神仏の力が宿っており、又、祈る人のエネルギーも昔から沢山集積されているので当り前のことではないかと思います。
それをことさらに取り上げてマスコミで紹介するというのは、信仰というよりも<人間を超えたある種のモノ>に対するあこがれ、欲求といったものが今の若い世代にも求められているのかと感じたりしました。
ただ、この感覚が一歩、誤るとカルト集団のような事件を巻き起こすことも考えなくてはならないことだと思います。
我々、真言宗では超人的なものを求めるのではなく、仏と一体となることが修行の目的とされています。
修行の方法も仏教各宗派によって色々ありますが、真言宗の基本は修法といって仏と一体となれるような順序、方法が明記された次第(テキスト)に従い、口に真言・手は印契を結び、心を三摩地(仏の境地)に住すのです。(これを三密という)
そして、その中のクライマックスは<入我我入>観というものです。これは「先ず仏が自分の中に入り、次に自分が仏の中に入る」と観想するものです。
そして、修行者が仏と一体感を持った所で祈りを捧げるのです。
そこには修行者の個人的な願い事は一切なく、世界平和、仏法興隆、人心安穏といった大きな人の幸せを祈るばかりの世界です。しかし、信者さんのお願い事が依頼される場合には身体健全、商売繁昌、良縁成就等の現世利益の祈りが行われるのです。真言宗ではこれを「方便行」と言います。即ち、諸々の個人的な願いを祈り、叶える行為をする、それを機会として、最後は仏道に導き入れるという意味を持っているのです。真言宗所依の経典である大日経には「方便為究竟」(ほうべんをもってくきょうとする)と書かれております。例え、最初は方便、方法であっても、それはそのまま最高の教え(究竟)につながるものなのだと教えています。
ですから、私達は交通安全、商売繁昌等の現世利益の護摩祈祷を行うのです。この祈りはそのまま、仏へと向かう浄行なのです。
話が長くなりましたが、パワースポットというのであれば、私は真言宗の祈りほどパワーとエネルギーに満ちあふれているものは他にないと信じています。
皆様方も是非、大宇宙に満ち満ちている本尊さまのエネルギーを感じて幸せな生活を送っていただきたいと念ずるものです。
合掌
(2010.04)
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今回より、「色は匂へど」の題名でエッセー等、思ったことを書かせて頂くこととしました。
ご存知のように、 「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見し 酔ひもせず」は、古くから「いろは仮名47文字」として知られており、全ての仮名の音を使って作られており、手習い歌の一つです。作者については不明ですが、長い間、弘法大師の作とされてきました。
これを仏教的な歌として解釈されたのが、新義真言宗の祖(真言宗中興の祖)である覚鑁(かくばん)上人<興教大師>であり、『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中で、無常偈(むじょうげ)として知られる「涅槃経」(ねはんぎょう)偈の「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」の意であると説かれました。
この意味を説明すると、

即ち、「諸行(全てのもの)は常に移り変り、これが生滅の法である。
生じ滅するといった移り変りを終え(生死を超え)、寂滅(悟り)を安楽とする」というのが大意であります。
この仏教の基本的な教えが込められている「いろは歌」の頭の句を題名に使わせて頂いて、今後色々なテーマについて意見を述べさせて頂こうかと思っております。ご愛読頂ければ幸いです。
合掌
(2010.03)
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この「お寺便り」で、檀信徒は元より地域の方々に寺の活動や事業等について広くお知らせし、理解と関心を持っていただければと願っております。
当山は「泉蔵院の歴史」にてご紹介のとおり、開創七百年の歴史を持つ寺でございます。鎌倉時代後期に創建され、その後、江戸時代に中興されたとの記録が寺の過去帳に残されており、これに依れば、草加市の寺院の中では一番古い歴史を持つ寺ということになります。
境内には、草加市有形民俗文化財である「六地蔵尊」「十三仏尊」の石仏があり、ほぼ当初の姿を留めております。
特に十三仏尊は、埼玉県・東京都の古い石仏群の中においても他に例がなく、大変珍しく貴重な石仏でございます。
また、この古い歴史にそぐわしい伝説が残されております。それは、近くを流れる毛長川にまつわる伝説であり、毛長神社と泉蔵院の成り立ち、関係を深く示唆しております。
各ページをご覧いただくと、今述べた内容がお分かりいただけますが、興味をお持ちの方は一度寺をお訪れていただければ幸いでございます。
今後も寺の活動等について広くお伝えし、開かれた寺となるべく努力していく所存でございます。皆様方のご愛読(拝見)宜しくお願い申し上げます。
合掌
(2010.01)
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