今年も早いもので、もう既に春の彼岸を迎え、沢山の方がお墓参りにみえました。三月は特にご法事も多く、毎週の土日は多忙な日々を過ごしました。
そこで、真言宗の重要な経典で、常日頃、お葬式や回忌法要等のご法事をはじめ、多くの機会に読誦される「理趣経(りしゅきょう)」について些(いささ)か想うところを記したいと思います。
正式な経題は「大楽金剛不空真実三摩耶経(般若波羅蜜多理趣品)」といい、その名のとおり「大楽(たいらく)思想」を説いたものであります。このお経は、その大楽なるものを「妙適(びょうてき)」に始まる十七清浄句を以って説いているのですが、この句が所謂(いわゆる)、男女の性愛、或いは肉体的快感の極致であるというような解釈をしたものたち(真言立川流)がいて、世間で理趣経について誤解を生んだこともありました。
これを説明すると長くなりますが、端的に言えばこの経は普通のお経とは根本的に次元が違うのであります。真言宗の根本本尊である法身大日如来が「第六天の他化自在天王(たけじざいてんのう)の宮殿」で説法されたものなのです。「他化自在天」とは、仏教で説く十界の中、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道(欲界ともいう)の最高世界である天界の更に最高である第六天の世界であります。六道は善悪の果報によって生れる世界(世間という)であり、その中で最高の善事を行ったもののみが、その果報として生れる世界が他化自在天であります。
史上の釈尊の説法に集(つど)う聴衆は、弟子である比丘(びく)や菩薩、更には天、竜、夜叉(やしゃ)等、鬼神の類(たぐい)もいるが、あくまで釈尊の弟子たる比丘衆であります。これに対して、現実世界を超えた他化自在天における法身大日如来による説法の聴衆は、金剛手菩薩や観自在菩薩、虚空蔵菩薩等の八人の菩薩に代表される八十億の菩薩衆のみであります。
それは、とりもなおさず理趣経を読誦するものもまた菩薩でなければならないということになります。理趣経を読誦するということは、そのまま大日如来の説法を聞くことに他ならないからです。
我々、真言行者は修法する時に、必ず先ず始めに「金剛薩た(た=土辺に垂:こんごうさった)の威儀(いぎ)に住すべし。心にウン字を観じて薩たの身となり、足に蓮華を踏むと想え、」と観想し、仏のみ足を礼し奉るのです。
金剛薩たとは、大日如来がこの世における衆生救済の活動を人格化したものと考えられます。 であるならば、理趣経を読誦する時は金剛薩たの威儀に住し、満ち足りた「一切の如来が常に遊処して吉祥と賞嘆し給う大魔尼殿」の風光を感得しようと努めなければならないのではないかと思います。しかし、そのためには常日頃より真言行者にとって、かえがえのない「修法」を行うこと、 それも「加持感応」の世界がなければ、十七清浄句も単なる絵空事の世界としか映らないのではないかと思います。
何となれば、仏教の最大目的は自らの心を清めるということに他ならないと思うからです。そして、修法の作法一つ一つが自らの心を清らかにし、外なる本尊を内なる自身の心へと遷座(せんざ)せしめ、更には自心の内証へと導いてくれるものであると信じるものです。
理趣経を読誦する時、更に心を澄ませ、至心に仏の風景を感じることができるようにと乞い願う次第です。
合掌
2013年4月1日