法語

仏教、お釈迦様、弘法大師の教え、身近な言葉に学ぶ

「泥中(でいちゅう)の蓮(はす) 」

 蓮は泥土(でいど)の中深くに根を張り、水上に茎(くき)と葉を浮かせ、清らかなまっ白い花を咲かせます。
 この汚れた泥土を私達が生きている世界、娑婆(しゃば)に例え、苦しみや欲にまみれたこの世界より清らかな純白の花を咲かす蓮、蓮の花は仏様の象徴なのです。
 インドでは古来より蓮を神聖なめでたい花として尊び、国花に定めてきました。 又、有名なお経である「法華経」は正式には「妙法・華経」といい、「最高の真理を表わす、白い蓮華の花のお経」という意味があります。
 お寺にいって仏様をよく観察すると、殆んどの仏様(如来や菩薩)は蓮の花の台(うてな)にお乗りになっています。 我々、真言宗のご本尊大日如来は胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)の中で中台八葉院といって八枚の蓮の花びらの中心に描かれています。
 仏の中の王という位を象徴的に表わしています。
 仏様はこの世の濁悪な欲望や煩悩にさいなまがれながらも、懸命に生きている私達人間に真理の清らかな花が咲くようにいつも見守ってくれているのです。

合掌

「ア字の子が ア字のふるさと発ち出でて また立ち帰るア字のふるさと」

 これはいつ誰が作ったのか分らない古い歌ですが、私達の命(いのち)がどこから来てどこへ行くのか、死というものをどう考えたらよいのかについて答えている歌です。
 この「ア字」とは梵字(ぼんじ)の(左の画像)を意味し「本尊大日如来」を表しております。 お塔婆やお位牌(いはい)には必ず書かれている文字であり、全ての源、命の源を意味し「大きな命」と表現したらよいのではないかと思います。すべてを包みこむ大きな仏様の命。
 私達はこの大きな命である本尊大日如来から命を頂いてこの世に生まれてきた、もともと仏様の子どもなのです。 その仏の子が父と母を縁(えん)としてこの世に生まれ、この世で人としての人生を過ごし、そして又懐(なつ)かしい 仏様のふるさとへ帰っていく。 人の死とはそういうことだとこの歌は教えています。
 ですから私達はいつまたこの世に生まれてこれるか分らない、この得難(えがた)い人生を大切に生きていかねばならないのではないかと思うのです。
 生老病死(四苦)、歳(とし)をとってくると誰もが自分の死、自分の最后について考えるようになりますね。
 これを書いている私、住職も同じ思いを持ち、自分の死について最近よく考えるようになりました。
 この死の恐怖の思いに捕(と)らわれた時、この歌を思い出しお唱えすると心が大きく解(と)き放(はな)されたようになります。

合掌

「仏造(ほとけつく)って魂(たましい)いれず」

 仏像を造っても魂を入れなければ、それは単なる木や石の塊(かたまり)に過ぎないという意味ですが、これが転じて姿形を整えてもそれにふさわしい心を持たなければ意味がないというふうに使われる場合もありますね。
 仏像、墓石、位牌等を新しく造った時には必ず「開眼(かいげん)法要」を行い、本尊様のみ魂(たま)をお迎えし入魂を行います。 「画竜点睛(がりょうてんせい)」、即ち最後に眼を画き入れて開眼となすこともありますね。
 何れにしても、ただの木や石に彫られた仏像、或いは紙に描かれた仏様であっても心を込めて開眼されたものには本尊様と同じ心、命が宿るのです。

合掌

「後生大事(ごしょうだいじ)」

 「後生(ごしょう)」とは、死後に生まれ変わる未来世(みらいせ)のことで、あの世。後世(ごせ)、来世(らいせ)ともいいます。
 「後生大事」とは、この世でよい行いをして、あの世の安楽を願うことが大事であり、そのためには信心深く、仏の加護を頼む心掛けが肝要であるという意味です。 「後生得楽」ともいいます。
 これが転じて「後生大事にする」という使われ方がされました。 ものをずっと永く大切にするという意味ですね。
 私の後生大事は、現当二世はおろか来世までも聖天さまに手をひかれ、竜華(りょうげ)の会場(にわ)に値遇(ちぐう)されることです。

合掌

「歓喜(かんぎ)」

 当山にお祀(まつ)りされている聖天さまの本名は「大聖歓喜双身天王(だいしょうかんぎそうじんてんのう)」です。 略して「歓喜天」といいます。
 仏さまのお名前は皆、そのご本誓(ほんぜい)を表していますが、「歓喜」の「喜」は「人が喜ぶこと」、「歓」は「人が喜ぶのを見て心から喜べる心」をいうとされます。
 ですから、歓喜天尊は我々が喜ぶ姿を見て共に歓んでくれる仏さまという意味なのです。 「歓び喜ぶ天」であります。
 但し、何でも歓んでくれる訳ではなく、聖天さまは仏法を護(まも)る仏、神ですので仏さまの教えにかなう事でなくてはならないのです。
 そのためには愚痴(ぐち)を言わず日々の生活の中に喜びを感じていくことが肝要なのです。 先(ま)ずはささいなことでも喜ぶこと、他人のことでも喜べる心を持つことです。 喜ぶことができるところに幸せあり、感謝ありです。 感謝の心なくして信仰はありません。

合掌

「塵(ちり)も積もれば山(やま)となる」

 語源は「大智度論(だいちどろん)」です。
 『我々の煩悩(ぼんのう)の三大要素である「貪(とん)」<むさぼり>、「瞋(じん)」<いかり>、「痴(ち)」<おろか>の汚(よご)れを放置すると、真理(仏の教え)を悟ることができず、大きな汚れの山となり動かすことはできなくなる』と説かれています。
 これが転じて、「小さなものの積み重ねでも大きな実を結ぶ」「小さなことと軽くみて、おろそかにしてはいけない」等のいましめの言葉となったのです。
 私の寺では、小さな寺ですがお賽銭(さいせん)があがります。 少しのお金(浄財)でもこれを5年、10年と貯(たくわ)えていくとびっくりするような金額になり、この浄財を浄所につかうことができるのです。 正(まさ)に「宝も積もれば山となる」です。

合掌

「現世安穏(げんせあんのん) 後生善処(ごしょうぜんしょ)」

 これは「法華経」に書かれている言葉ですが、法華経を聞けば「この世(現世)で安らかな(安穏)な生活をして、あの世(後生)で善(よ)い処(ところ)に生まれることができる」という意味でしょうか。 現世安穏 後生得楽ともいいます。
 「現世利益(げんぜりやく)」という言葉も本来はこの世で安穏な生活を得ることをいいます。
 「後生」も本来、後の世に生まれ変わることをいうのですが、現代人にとって「後生善処」を求めようとする心はあるのでしょうか。 死んだら全て終わりではなく、私たちの魂は死んだらステージ(場面)が変わるという意味ではないかと思います。
 ステージが変わっても、その人の演じてきたことは生き続けると。

合掌

「苦しい時の神頼(だの)み」

 日頃は神仏を拝まず信仰心のない人が、病気や金銭等で困ったときだけ急に神仏にすがり助けを求めることをいいますが、転じて日頃は知らん顔していながら困ったときだけ頼ってくるような時に使う言葉ですね。
 しかし、「仏の顔も三度まで」という言葉もあり、そう何度も同じことをしていたのでは誰にも見向きされなくなります。
 仏さま、特に聖天さまはこの世で一番強力な力を持った仏といわれ何の願い事も叶えてくれますが、その代り礼儀を重んじることが必要です。
 昨今、礼節に対する考えが軽くなり、目上の人に対してもタメ口をしたり、挨拶もまともにできない人が多くなっているように思えますが、神仏に対する尊敬の念、そしてそれを形で表すことは人として大事なことではないでしょうか。

合掌

「過(す)ぎたるはなお及(およ)ばざるが如(ごと)し」

 物事も度を過ぎると足らないのと同じように不完全なものとなるという意味で使われる言葉ですね。
 仏教では「中道(ちゅうどう)」を説きます。 いわゆる片寄らない心です。 でも、右でも左でもない真ん中の道という意味ではないのです。右も左も理解した上で、これを超越していく道といったらよいのでしょうか。
 仏教のバランス感覚は私たちの生活の上で大事な意味を持っているのではないでしょうか。
 「酢(す)いも甘(あま)いも噛(か)み締(し)める」・「清濁(せいだく)併(あわ)せ呑(の)む」などという言葉を想い出しました。

合掌

「悪事(あくじ)千里(せんり)を走(はし)る」

 仏教では「悪の報いは、善の報いより速やかなり」「悪の報いは針の先」と説き、悪事を行った報いは善い事をした報いより早く、例えば針の先を一回りするほどの短い時間にその報いがくるといっています。
 悪い噂や失敗はまたたく間に世の中を駆け巡り、逆に良い評判や成功話はなかなか伝わらないことが多いのです。 人が興味をもつのは成功話よりも悪い噂や失敗の話ということでしょうか。 「人の失敗は蜜の味」なんていう言葉もあるようですね。

合掌

「情けは人のためならず」

 若かりし頃、この言葉の意味を先生に聞かれた時、思わず「情けを人にかけることは必ずしも、その人のためにならないから、かけない方が良い」と答えてしまいました。
 「勘違いことわざ」の1つで「人のためならず」は 「人のためにならないではなく、自分のためである」 と解釈するのが本来の意味です。
 仏教の因果応報(いんがおうほう)の考えから生まれた言葉で、善行は巡り巡って自分に還ってくるのだから、人には親切にしなさいという意味であります。
 皆さんもちょっとした善行が将来、良い結果に結びつくかなと思ったことがあるのではないでしょうか。

合掌

「果報(かほう)は寝(ね)て待(ま)て」

 毎月、聖天さまの浴油供において 信者さんの様々な願い事が成就するようお祈りしていますが、私一人で祈って叶(かな)うものではありません。 本尊さまと行者(住職)と信者の気持ちが一体となって初めて効験が得られるのではないかと思います。
 そして、一所懸命祈るのと同時に物事が成就するよう努力することも忘れてはいけません。 ただ祈って寝て待つだけではなく 「人事を尽くして天命を待つ」、いかなる事が起きても それに対応できるようにしておくことが必要であります。 本田宗一郎氏(HONDAの創業者)の訓示の如く 「果報は練って待て」 と。

合掌

「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)しがたし」

 仏さまや仏法(仏さまの教え)との出会いを仏縁(ぶつえん)や結縁(けちえん)といいます。 仏さまと縁を結ぶことをいうのですが、反対にこの機縁に恵まれない人は いくら救済する力をもつ仏さまでも救うことは難しいという意味です。
 「度す」とは「迷いと苦しみのこの世(此岸=しがん)から、穏やかな悟りの場所であるあの世(彼岸=ひがん)に船に乗せて渡す」こと、即ち人々を救うという意味です。
  "仏さまとの出会い" がいかに大事なことであるかを言いきった言葉ではないでしょうか。

合掌

「リセット」

 「リセットする」と最近よく使われる言葉ですが「再度、準備してやり直す」という時に使われる言葉ではないかと思います。
 法句経に 「かつて悪(あ)しき行いをしていた人でも、のちに善(よ)い行いでつぐなうならば、その人は雲を離れた月のように、この世の中を照らすことになる」 とあります。
 人が悪い行いを反省し帰依し新たな出発を誓うとき、仏さまはリセットを許すのです。

合掌

「阿吽(あうん)の呼吸」

 「お互いに阿吽の呼吸でいきましょう」と言われたことがあります。
 お経を記録した古代インド語のサンスクリット(梵語=ぼんご)には12の母音があり、最初の母音がで、最後の母音がになっています。
 阿は全てのものの始まりを表わし、吽は終わりを表わしています。 また、阿は口を開いて発する音であり、吽は口を閉じて発音します。
 これより転じて、吐(は)く息と吸(す)う息と合せる お互いの呼吸、息が合う 気持ちがぴったり合うことを表わした言葉として使われます。
 寺の山門の仁王さまや神社の狛犬(こまいぬ)は、この阿吽の二字を表わしています。
 仏さまと阿吽の呼吸になれれば素晴らしいことですね。

合掌

「不殺生(ふせっしょう」

 「殺生なことをしてはいけない」等と昔は使われた言葉ですが、最近は余り聞かない言葉になったのかなと思います。 私は寺で生まれ育ったものですから、子供の頃、お盆やお施餓鬼の時に川に魚釣りに行ったりすると、父親から酷(ひど)く叱(しか)られたのを思い出します。 普段の日はともかく「ご先祖のご供養をするような時に殺生するとは何たることか」ということだと思いますが、子供心にはもう一つ意味が呑(の)みこめなかったのであります。
 余談はさておき、仏教では「してはいけないこと」(戒律)の第一番目にあるのがこの「不殺生戒」です。
 「すべての者は暴力に怯(おび)える。 すべての者は死を怖(おそ)れる。
  自分に引き比(くら)べて殺してはならぬ。 人をして殺させてはならぬ。」 (法句経)

 このようにお釈迦様は説かれたのです。
 これは何よりも自分自身への反省から出ているのではないでしょうか。 自己愛より。
 自分の命を愛(いとお)しいと思わないものはいないのです。 ですから、自分自身に引き比べて他人の命も自分と同じように考える必要があるのです。
 他人の命も自分の命と同じように同じく愛(いとお)しく、かけがいのないものであると。

合掌

「邪見(じゃけん)」

 「邪険にする」「邪険にしないで」等と使われる言葉ですが、「邪険とは、相手の気持ちを理解しないで、意地悪く、むごい扱いをすること、又はさま」 と国語辞書に書かれています。
 例えば、会社でのパワハラ、セクハラや学校でのいじめ等がこれに当るのでしょうか。
 しかし、最近は邪見と書く場合もあります。 邪見は仏教語で、十善戒のひとつで「不邪見」といって自己中心的なものの見方や考え方をしないようにすることをいいます。
 邪険と邪見は一見、違った内容に見えますが、「人を邪険にする」 ということは、相手の気持ちを見ずに自己中心的な行為をするという意味で邪見と同じであると思います。
 何れにしても、少しでも誤ったものの見方や考え方をしない、片寄った考え方をしないように努めていく事は、人間を幸せな生活に導く上で大事なことではないでしょうか。

合掌

「業(ごう)」

 「業が深い」 「業を煮(に)やす」 「自業自得(じごうじとく)」 「業腹(ごうはら)」 など、どれもあまり良い意味では使われず、かなり悪い意味で使われる言葉ですね。
 しかし、本来、業は「行為」(カルマ)という意味であり、仏教ではこの世におけるあらゆる出来事は前世よりの業の結果であると考えられています。
 行為といっても、これは「心の造作」 「心のエネルギー」 であり物質的な形をとらないものとして捉(とら)えるものであり、「意思作用」と見るものです。
 心はエネルギーであり、波動であり、善い心を作れば、善い行動ができ、善い考えや言葉も出る。 そして、全ての原因を変えていくことで善い結果を生み出す。
 善も悪も全ては私たちの「思い」から生まれてくるのであり、善いことや思いやりのあることを思えば、善いことや思いやりのあることをするようになり、善い種(カルマ)となっていくのです。 これが「カルマの法則」というものであり、この心の働きは永遠性を持っており、常に因縁果として相続されていくと。
 真言宗では我々の身口意(しんくい)の「三業」(体と口と心の働き)を仏の三密に浄化していくことで仏になることができると説きます。
 このように業は仏教の基本となる考え方であり、私たちはよくよく、この業の意味を考えなければならないのではないかと思います。

合掌

「四苦八苦(しくはっく)」

 「四苦八苦する」と、物事が思うようにならない、どうにもならないような時によく使われる言葉ですが、本来、仏教の言葉で人間のあらゆる苦しみ、人間として逃(のが)れられない苦しみのことをいいます。
 四苦とは「生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)」をいい、この世に生まれ出ること自体が苦しみであり、生まれてくれば誰でも必ず年をとり、病気になって、最期は死を迎えるという人にとって、避(さ)けて通れない宿命を苦ととらえているのです。
 八苦とは、この四苦に加えて「愛別離苦(あいべつりく)」=愛する人と別れる苦しみ、「怨憎会苦(おんぞうえく)」=怨(うら)み憎(にく)む人と出会う苦しみ、「求不得苦(ぐふとっく)」=求めようとしても得られない苦しみ、「五陰盛苦(ごおんじょうく)」=視覚、認識などの心理作用が盛んになるために沸(わ)き起こる苦しみをいい、精神的な苦しみをいいます。
 般若心経には「度一切苦厄」(一切の苦厄を度す)と書いてあります。 そして、全ての苦しみから救われるためには「行深般若波羅蜜多」が必要であると。 「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)」とは仏さまの智慧(ちえ)を頂くことです。
 般若経は全て「空(くう)」を説くお経です。 般若心経を唱えることによって、仏さまの教えを深く体に沁(し)みこませ、モノにこだわる、執着する心を少しでも軽くすることは現代人にとって必要なことではないでしょうか。

合掌

「愚痴(ぐち)」

 愚痴をこぼすとよく言いますが、愚痴を辞典で調べると「言っても、かいのないことを言ってなげくこと。三毒の一つ、愚かで真理に対して無知であること。無明」 等と説明されています。
 では、この三毒(さんどく)とは何かいうと煩悩の中で一番やっかいなもの。 まず、むさぼりの心(貪欲=どんよく)、怒りの心(瞋恚=しんに)、そして真理にくらい心(愚痴=ぐち)、この三つを貪瞋痴(とんじんち)といって三毒煩悩とよぶのです。
 特にこの愚痴をなくすためには、仏の遺(のこ)した聖典(経)を拠(よ)り所として智慧(ちえ)を求めて行くことが必要であります。
 ものごとの道理を踏まえ、仏の説かれた善悪の基準を見い出していくことは簡単なことではありませんが信仰することによって最後には心を平安で穏やかなものにしてくれると信じるものです。

合掌

「慈悲(じひ)」

 あの人は実に慈悲深い人だなどと使われますが、「慈悲」はお釈迦さまが私達に伝えようとした大切な言葉であり、仏教の特徴を一語で表わしています。
 慈悲は仏典の中で「与楽(よらく)、抜苦(ばっく)」と説明されています。 即ち、慈とは相手に楽しみや喜びを与える意味であり、悲とは相手の苦しみや悲しみを抜くという意で、仏教の実践行です。
 私達はいつも自己中心的な考えになりやすいのですが、少しでも相手の立場になって考えることができれば素晴らしいことではないかと思います。
 今回のIOC総会での滝川クリステルさんのプレゼンテーションで使われた言葉、「おもてなし」も相手の立場になって、他を思いやる心から始まるのではないでしょうか。
 「おもてなし」も「おもいやり」の心から。

合掌

「袖(そで)すり合(あ)うも他生(たしょう)の縁(えん)」

 見知らぬ人とすれちがいざまに袖がふれあった。 これは単なる偶然ではなく、過去世からの因縁によるものである。 この世の中で起こる様々な出来事は全て偶然によるものは何一つなく、因縁所生の産物である。 であるから、色々な出会いを大切にして行かなければならないという意味でしょうか。
 「他生」は「多生」とも書きます。 「縁は異(い)なもの味(あじ)なもの」という言葉もあります。 男女の縁や人間関係は本当に予測のつかない、面白いものという意味で使われますが、ここにも仏教の「縁の思想」が息づいてます。
 私達はたくさんの人や人間以外の生きものの命によって生かされています。 感謝する心を忘れないようにしたいものです。

合掌

「一所懸命(いっしょけんめい)」

 文字通り、一つのことに命を懸(か)ける、やり通すという意味であり「一生懸命」とも言います。 私達は普段の生活において何気なくよく使う言葉ですが、本当にこの言葉の意味のとおり命をかけて行っている事はあるでしょうか。
 一つの物事が結果を生みだすためには、因と縁(原因とそれに係る諸々の条件)が必要なことは明らかですが、その基になるものは、それを達成しようという努力ではないかと思います。
 昨今は少しやってみて駄目なら直(すぐ)に諦(あきら)めて他の方に行ってしまう傾向がありますが、「石の上にも三年」、達磨(だるま)大師の「面壁九年」(九年間座禅を続けた)に代表されるような我慢強さ(これを仏教では忍辱波羅蜜(にんにくはらみつ)という)も大事なことではないかと思います。
 例え、結果が成就しなくとも、それに向って行った努力は無駄なものではなく、どこかで花開くこともあるのではないでしょうか。

合掌

「千載一遇(せんざいいちぐう)」

 千年に一度しか会うことができない、得難い機会という意味で、「千載一遇のチャンス」等とよく使われる言葉です。
 仏典でも「優曇華(うどんげ)」という樹は三千年に一度だけ花開くとされており、仏がこの世に現れるのに出会うことが、いかに難しいかということの譬(たとえ)として用いられています。
 又、よく使われる言葉に「一期一会(いちごいちえ)」があり、これも元々は仏教の言葉で、何事も一生に一度だけの機会として悔(く)いのないようにしなければならないという意味です。
 私達の命は父母の力を縁(えん)として、遠い過去より果てしない未来へと向って永遠に旅をしているものであり、「人に生れてきたことの有難さ」を改めて感じなければならないのではないかと思います。 人間として生れることができたのも千載一遇といえるのではないかと。 そして、今、この機会に「仏と出会うことの有難さ」を感じることができれば、最高の幸せになるのではないでしょうか。

合掌

「心 ここにあらざれば 視(み)れども見えず」

 人間には 「六根」 という六つの感覚器官があります。 眼・耳・鼻・舌・身・意をいい、又、その対象として色・声・香・味・触・法という 「六境」 があります。 眼の対象は色、耳の対象は声・音ですが、意即ち心の対象は様々なものです。 そして、その六根を総合的に受けとめるのが 「識」(六識) です。
 いくら眼で見て声や音を聞いたり香りを嗅いでも、それを感じようとする意思がなくては受けとめることが出来ないのです。 例えば、テレビをみていても考え事をしているような場合、目には視えても実際には見えていないのと同じです。 こんな経験は誰でもしたことがあると思います。
 この言葉は一つのことに集中して、それを心で受けとめることの大事さを説いているのです。
 仏教では、仏さまの境地に入り他の事は忘れることを「三昧(さんまい)」といいます。 釣り三昧とか、よく使われる言葉ですが、本来は仏さまの境地にひたすら入り、無我の心になることをいうのです。 或いは「禅定(ぜんじょう)」という言葉もあります。 心を落ち着かせ集中する心の状態をいいます。
 私達も悪いことは退け、良いこと(善行為)には集中して、それを心の中でしっかりと受けとめていくことが大事なことではないでしょうか。

合掌

「古人の跡を求めず 古人の求めたるところを求むべし」

 この言葉は、俳聖・松尾芭蕉が「許六離別の詞」の中に記している文です。
 古人が成してきた事実だけを追求して、古人が本当に求めていたもの、つまり心を求めていかないと形だけを真似ても意味がないということではないかと思います。
 我々は、多くの先人から色々なものを受け継いで、その恩恵に浴している訳ですが、ただ便利さや欲望にとらわれて、大事なものを捨ててしまっていることもあるのではないでしょうか。
 過去の歴史を学ぶとき、先人のしてきた事実だけを見るのではなく、何が私達に真の幸福をもたらすものかを考える必要があるのではないでしょうか。

合掌

「人(ひと)の過(あやま)ちをいわず 我が功(こう)を誇(ほこ)らず」

 簡単なことのように見えて、実は難しいことの一つですね。
 他人の失敗や短所はすぐに気付いて気になりますから、言わずにいようと思っても、ついどこかで口に出してみたくなります。
 そして、自分の成功や長所もなかなか隠しておけずに、他人に言ってみたくなるものですよね。 自分の短所はさておいて。
 これでは人とのお付き合いもうまく出来ず、場合によっては人の恨(うら)みや妬(ねた)みを買うことにもなります。
 全て人の過ちをいわずということではなく、相手の立場になって相手を思いやる気持ちが大事なことではないか、そして、「人のふりみて 我がふり直せ」ということが、自分を高めてくれることになるのではないかと思います。 なかなか実行することの難しい言葉ですが品位のある言葉ではないでしょうか。

合掌

「人(ひと)を変(か)えることは出来(でき)ない 変(か)えられるのは自身(じしん)のみ」

 私達は日々の生活の中で、「あの人が変わってくれたらもっと良くなるのに」と、他人の欠点を見てしまいがちです。
 皆さんも「北風と太陽」の童話をご存知(ぞんぢ)だと思います。
 旅人が冬のある日、道を歩いている時のことでした。 北風と太陽が何やら話しています。 あの旅人の上着を脱がすことが出来るか競争しようという話でした。 北風は自慢の強風で上着を吹き飛ばそうとします。 旅人は上着が飛ばされないように上着をしっかり押さえてしまい、いくら強風を浴びせても旅人の上着を脱がすことは出来ず、とうとう諦(あきら)めてしまいました。 一方太陽は、温かな日差しを浴びせました。ポカポカした光にだんだん汗を掻(か)き始め、とうとう暑さに耐えきれず上着を脱ぎました。 つまりこの勝負は太陽の勝利となります。
 人を変えようと思って北風のような言葉をいくら言った所で、言われた当人はかえって意固地(いこじ)になってしまいます。
 そのような時こそ自分の心を太陽のような温かい心に変えていけば、人も心を開いてくれるのではないでしょうか?
 自分の心を常に温かく保つのは大変かもしれませんが、仏様のような温かい心を体得できるよう心掛けてみましょう!

合掌

「夫(そ)れ恩(おん)河(が)深(ふこ)うして 底(そこ)なく 徳(とく)山(さん)峻(さか)しくして 天(てん)を衝(つ)けり」

『性霊集(しょうりょうしゅう)』巻第八

 まずこの言葉の現代語訳を記してみたいと思います。
 「そもそも父母の恩は河より深く、底に至ることはなく、その徳は山のごとく険しく高く、天に届くほどである。」
 私たちがこの世に生を受けるためには誰もが両親の縁を頂き生まれてくる訳ですが、特に母親に関しては十月十日自身のお腹で我が子を育み、大変な思いをし、我が子をこの世に生み出してくれます。
 父は子供を養育する為に懸命に働き、子供が横道にそれぬよう母と共に躾をする訳です。
 お大師様は、親の子を思う気持ちは何ものにも代え難い深い愛情に裏付けされたものがあり、そうした恩は天地に届く程であるとお説きになられています。
 私達は日々の生活の中で、忙しさに流されるままついつい両親の恩も忘れがちです。
 「孝行のしたい時分に親は無し」と諺にありますが、ホームページをご覧の皆さんも今一度ご自身のご両親に思いを向け、親孝行してみてはいかがでしょうか?

合掌

「愚童凡夫(ぐどうぼんぷ) ある時に一法の想(そう) 生(しょう)ずることあり」

『大日経住心品(だいにちきょうじゅうしんぼん)』

 お大師様がお説きになった『秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』の2つ目に『愚童持斎心(ぐどうじさいしん)』というものがあります。 その元になった文章が『大日経住心品』に説かれている今回の法語です。
 愚童とは小さな子供のように道理がわからないことをいいます。 凡夫とは仏教の真理を理解せず、生活をしている平凡な普通の人のことをいいます。 持斎とは自分の食べ物を節食して他の人に施すことをいいます。 『愚童持斎心』とは道理がわからなくても、他の人に食べ物を施そうという優しい気持ちが芽生える心の段階をいいます。 よく小さい子供が「半分こね」と言ってお菓子を友達にあげる様子を見かけますが、そのような状態と考えて頂いてもよいと思います。
 つまり上記の法語は、どんなに道理がわからず、仏教の真理を理解していない普通の人でも、ある時に一つの教えが心に生じ、それをきっかけに善い心が芽生えることを説いています。
 何かのきっかけで「善いことをしよう」と思ったら、ためらうことなく実践してみてはいかがでしょうか?
 今年1年がホームページをご覧の皆様にとりまして良い1年でありますことを心よりお祈り致しております。

合掌

「心は、捉(とら)え難(がた)く、軽々とざわめき、欲するがままにおもむく。 その心をおさめることは善いことである。 心をおさめたならば、安楽をもたらす。」

『法句経 35』

 寝ている時以外は常に活動しているのが我々の心ですが、誰しもがいろいろな出来事に一喜一憂しています。 では私達の心はどこにあるのでしょうか? 脳にあるのか、それとも胸のあたりにあるのかはっきりわかりませんが、心があるのは確かです。
 心は自分の欲望のままに動き、少しのことで動揺し、捉えどころがないとお釈迦様はおっしゃっております。 ではそのような捉えどころのない私達の心をどのようにしたら安定させることが出来るのでしょうか?
 お釈迦様は菩提樹の下で瞑想を行ってお悟りを開いたといわれております。 私達の心を停止することは出来ませんが、静かな所に1人座り呼吸を調える瞑想をすることにより、心を安定させることは可能です。 ホームページをご覧の皆さんもご自宅で自らの心をおさめるために瞑想をし、安楽の境地を目指してみてはいかがでしょうか?

合掌

「怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きるほうがすぐれている。」

『法句経 112』

 日々の生活の中で誰しもが、怠け心が起こったり気力が落ち込んだりすることがあると思います。
 お釈迦様は無気力に過ごす百年よりも、精一杯勤め励む1日の方が優れているとおっしゃっております。
 毎日全力で仕事や家事、学業を行えれば良いですが、弱い心が首をもたげつい怠けてしまうのが私たちではないでしょうか?
 毎日でなくとも、一生懸命行おうとする心があれば一生のうち1日はその様な日を送れると思います。
 そしてもしそのような日が送れたならば、2日、3日と増えるような生活を送り、やがて安らかな境地に到達する日々を送れるよう努力したいものです。

合掌

「慈(じ)は能(よ)く 楽(らく)を与(あた)へ 悲(ひ)は能(よ)く 苦(く)を抜(ぬ)く」

『性霊集』巻第八

 みほとけ様のお心を一言で表すと「慈悲」という言葉に集約されます。
 今月の法語の一文は、お大師様の詩や願文等を集めた「性霊集」で説かれているものです。
 他人を思いやるいつくしみや優しい気持ちは、人々に楽しみや安心を与えることが出来ます。
 又、他人の痛みや苦しみを共に分かち合い、それらの苦しみを取り除こうとするあわれみの心は人々を苦しみから救いだすことができます。
 仏の教えはたくさんありますが、最終的にはこの大慈・大悲の心を体得し、苦しんでいる人々に慈悲心を振り向けていくことがとても大切になってくると思います。
 毎日多くの人と出会い、いろいろな御縁をいただく中で他人の苦しみを取り除きいつくしみの心を与えられるような心を育みたいものです。

合掌

「迷悟(めいご)我(われ)にあれば 発心(ほっしん)すれば即(すなわ)ち至(いた)る」

『般若心経秘鍵』

 私達は日常生活の中で常に自分の外側に答えを探そうとしているのではないでしょうか?
 この言葉は、お大師様が説かれた「般若心経秘鍵」の言葉です。 迷いも真理も自分自身の中にあり、心を真理に向けていけば、やがて悟りの世界に到達することが出来るとお説きになられています。
 私達は日々の生活に追われ、自分の心を見つめる余裕すら無くなっています。忙しい日々の中でも、自分の心を見つめる時間を持ち、仏様の安らかな心境を獲得するよう努力したいものですね。

合掌

「先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。 そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。」

『法句経 158』

 お釈迦様が最後にお説きになった教えに  「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」 というものがあります。 お釈迦さまなき後、自分自身とお釈迦さまがお説きになられた法を拠りどころとして修行に励みなさいというものです。
 今回の法語は、自分を正しく整えた後に他人を教えなさいというもので、わかっていてもなかなか出来るものではありません。 では自分を整えるためには何が必要でしょうか?
    我々が行動する際、一番根底にあるのが心です。 心が乱れていれば人を指導するどころではありません。その心を整えていくことが、自分を正しく整えていくことにつながっていくと思います。 だからこそお釈迦様は自分自身と仏の教えを拠り所としなさいとお説きになられた訳です。
 心が整っている時に発する優しい言葉や正しい行動は相手に安心感を与え、教え諭す人の言葉を素直に聞こうという心の状態に導くことになると思います。 さらには煩わしさや悩みから解放され安心の心境に到達できるのではないでしょうか?
 人を指導する際はまず自分を整えてから教え導きたいものですね。

合掌

「もしも或(あ)る行為(こうい)をしたのちに、それを後悔(こうかい)しないで、嬉(うれ)しく喜(よろこ)んで、その報(むく)いを受(う)けるならば、その行為(こうい)をしたことは善(よ)い」

『法句経 68』

 私達は生きている以上、毎日何かしらの行為を行っています。 行動した後に反省の念が起こることも沢山あるのではないでしょうか?
 この言葉はお釈迦様がお説きになられたもので、自分の行為の結果、自分自身の心の状態が晴れやかな時は行った行為自体が善いということを表わしております。
 例えば、お腹のすいた子供たちが道端に沢山いるとしましょう。 あなたはその時沢山の食べ物を持っています。 あなたならどうしますか? そのまま通り過ぎ、家路を急ぎますか? それとも食べ物を分け与えますか? どちらの行為を選択した時に喜びの念が心に湧き上がってくるでしょうか? きっと食べ物を分け与えた時の方が喜びの念が心に湧き上がってくるのではないでしょうか。
 仏教の教えに、「自利(じり)・利他(りた)」 という言葉があります。 他人の利益になる行いは、巡り巡って自分の利益に繋がっていくと言うことです。 特別なことではなくとも、人が喜んでくれる行為は、おのずと自分自身の喜びに繋がっていきます。
 お釈迦様がおっしゃるように、毎日の生活の中で喜びの念が残るような行為を心がけ、縁ある人達と心豊かな日々を送りたいものですね。

合掌

「三密加持(さんみつかじ)すれば 速疾(そくしつ)に顕(あら)わる」

『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』

 上記の言葉は弘法大師空海上人が『即身成仏義』という書物の中でお説きになられた一説です。
 我々の身体の働き、言葉の働き、心の働きを三業といい、この三つの働きが仏様の働きになると三密となります。
 「加持(かじ)とは、如来(にょらい)の大悲(だいひ)と衆生(しゅじょう)の信心(しんじん)とを表(あらわ)す。 仏日(ぶつじつ)の影(えい)衆生の心水(しんすい)に現ずるを加といい、行者(ぎょうじゃ)の心水よく仏日を感ずるを持と名ずく」 とお大師様はお説きになられています。
 加持の「加」とは、仏様が我々人間の痛みや悲しみ苦しみを取り除こうと働きかける大悲の心が、我々の心に現れることをいいます。「持」とは、我々の心が仏様の大悲のお力をよくよく感じることをいいます。
 ではどうしたら仏様の慈悲を感じる事が出来るのでしょうか?
 『手に印契を結び、口に真言を唱え、心に仏を念じる。』
 この三つの力が融合する時、そくしつ速疾(すみやか)に現象となって顕れるとお大師様は説かれています。
 一般の皆様でしたら、手は合掌をし、口にお大師様のご宝号(ほうごう)(お経)である『南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)』と唱え、心にお大師様のお姿を念ずれば良いと思います。毎日一心に祈ることにより大悲の心を感じるようになってくると思います。
 6月15日はお大師様がお生まれになった日です。 日々の生活の中にお大師様がお説きになられた三密の行を取り入れ、お大師様のご加護のもと、心豊かな生活を送られますことをお祈り申し上げます。

合掌

「蓮(はちす)を観(かん)じて自浄(じじょう)を知(し)り 果(このみ)を見て心徳(しんとく)を悟(さと)る」

『般若心経秘鍵』

 夏にきれいな花を咲かせる蓮。 仏教では泥を我々の煩悩に例え、その泥の中から茎をスーと伸ばしきれいな花を咲かせる蓮を仏の智慧や慈悲の象徴とし、大変重要視しています。
 今回の法語は、弘法大師空海上人が、般若心経を解説された「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」の一説です。
 蓮の花は上にも記したように、仏教では悟りの象徴であります。 我々の心は煩悩という泥にまみれております。お大師様は、我々の心は本来蓮の花のようにきれいであり、それを知ることが大切であると教えて下さいます。 更には蓮華の種を見て、我々の心に本来あらゆる徳が備わっていて、それを自覚することが大事であるとお説きになられています。
 春から初夏にかけては沢山の花が咲き乱れます。 皆さんも蓮の花や自然界の花々を観察し、自身の清浄な心を再確認して頂きたいと思います。

合掌

「波浪(はろう)の滅生(めっしょう)は但(ただ)しこれ水(すい)なり 一心(いっしん)は本(もと)より湛然(たんねん)として澄(す)めり」

『秘蔵宝鑰』

 海に行った際に、砂浜から海を見つめた経験は誰にでもあるのではないでしょうか?
 「波浪の滅生」とは波が消えたり起こったりしている様子を表しています。 嵐になれば海も荒れ波も激しく押し寄せるでしょう。 逆に嵐が過ぎれば穏やかな水面が戻ってきます。 海がどのような状態であれ、波の本質は水であり、深海に行けば海面とは違いいつでも穏やかな状態であります。
 我々の心も時には怒りの感情にほんろう翻弄されたり、またある時には嘆きや悲しみの感情に押しつぶされるような心境になることもあります。
 心を落ち着けていけば、心に沸き立つ大小の波に翻弄されることなく安らかな心境に到達することが出来るでしょう。 お大師様は我々の心の本質は元々純粋なものであると「秘蔵宝鑰」の中でお説きになられています。
 私達も心の波を穏やかにするよう、日々の暮らしの中でゆったりとした時間を持ちたいものであります。

合掌

「真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥(ふ)す。聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。」

『法句経 79』

 仏の説いた教えを信じ、その教えに親しむことによって、自分の心が一日一日清められ、休息の時間である睡眠も安らかなものになっていく。
 我々の生活の中には常に不安になる種がありますが、時にはそうした不安が一掃され、安心(あんしん)の境地に達することもあります。 仏教ではこの「あんしん」を「あんじん」と読みます。
 安心(あんじん)とは、気掛かりな事が無く、心が落ち着き安定している状態をいいます。 「あんじん」に近づく為には、やはり仏法に親しむ必要があると思います。 仏法に親しむことにより、おのずと、仏の心である「慈悲心」の体得につながっていくのではないでしょうか。
 そして仏の教えの中に、我々一人一人が抱えている悩みや苦しみを解決する糸口が沢山説かれているのです。
 皆さんも仏法に親しみ、日々の生活を心豊かに充実したものにしてもらいたいと思います。

合掌

「薬(くすり)を投(とう)ずることこれに在(あ)り 服(ふく)せずんば何(なん)ぞ療(りょう)せん」

『秘蔵宝鑰』

 この言葉は、弘法大師空海上人がお説きになられた『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』にある言葉です。
 私達は風邪などの病気になった時に、薬を服用し治療に専念しようとします。 しかし、薬を服用しなければ病気の治癒は格段に時間がかかるでしょう。
 この言葉の薬とは『仏の教え』を表しています。 つまり仏様はいつでも私達に仏法という薬を投げかけて下さっているのです。
 しかしそれを服用しなければ、どうして迷いや悩みを癒すことが出来るのでしょうか?
 一日も早く仏法を服用し、迷いの心境から脱したいものであります。

合掌

「元旦や 今日のいのちに 逢う不思議」

『木村無相』

 新年明けましておめでとうございます。
 2012年の新しい年を迎え、皆様も心新たに日々をお暮らしのことと存じます。
 今回の法語は、真宗の詩人として知られる木村無相氏の言葉です。
 元旦に目が覚め、今日も自分という人格として命があることを実感できる不思議。
 私達は日々の生活の中で、何気なく朝を迎え1日を過ごしていますが、それが当たり前ではなく、実はとても尊い1日であることを感謝しなくてはいけないのではないでしょうか。
 今年もみほとけの教えに親しみ、実りある1年を過して頂きたいと思います。

合掌

「物に定まれる性(しょう)なし。 人、何ぞ常に悪ならん。」

『秘蔵宝鑰巻上第二』

 この言葉は弘法大師空海上人が著された「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく)の中にある一文であります。
 私たちは生活する上で沢山の物に囲まれていますが、それらの物は同じように見えても同じ状態の物は一つもありません。
 同じように我々人間も一刻一刻変化しています。
 私たち人間は時に間違った事をしてしまったり、悪いことをしてしまうことがありますが、常にその状態のままである訳ではありません。 常に変化している事象の中で、もし悪業を行ったとしても自分自身を見つめ反省し善行を行うことにより良い方向に変化していくことを御大師様は教えてくれています。
 私たちも悪い行いを善い行いに変えるよう努力したいものであります。

合掌

「虚(むな)しく往(ゆ)きて満(み)ちて帰(かえ)る」

『性霊集(しょうりょうしゅう)』巻第2

 私達は誰でも、悩みがあるものであります。出来れば悩みが消え、穏やかな心になりたいと誰もが思うのではないでしょうか。
 この言葉は弘法大師空海上人が師の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)に贈ったと言われる追悼碑文の中にある言葉です。
 恵果阿闍梨は生前、大変仏徳あふれた素晴らしい方で、身分に関係なく、多くの人が師のもとを訪れたと言われております。師を訪れた人々は最初、苦しみや迷いを抱え絶望して虚しい心であったのに、帰る時には心が満たされ、満足して帰って行ったと言われています。
 空海上人はそうした師の徳を讃え、碑文の中でこの言葉を贈ったと言われています。
 私達も日々の生活の中で、辛いことや悲しいことがありますが、そんな時こそお寺に参拝したり、仏の教えを学んだりして、満ち足りた心になりたいものであります。

合掌

「健康(けんこう)は第一(だいいち)の利(り)」

『法句経 204』

 我々一人一人が常に健康でいたいと思っていますが、人間である以上風邪を含め誰もが病にかかります。財を成したとしても健康でなければ財を有効に使うことは出来ません。逆に健康であれば、元気に働くことが出来たり、有意義に生活を送ることが出来るのではないでしょうか。
 この言葉の原典は「法句経」というお経に出てくる一節で、肉体の健康だけを説いているのではなく、精神を含めた身心両面の健康を説いているのです。原典を紐解くと以下のように説かれています。
 「健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の知己であり、涅槃は最上の楽しみである。」
 私達は健康であるときに無理をして病にかかることがあります。そうならないように、健康であることに感謝し、有意義な日々を送りたいものであります。

合掌

「水中(すいちゅう)には本来(ほんらい)月影(げつえい)なし」

『大乗本生心地観経 巻第4』

 皆さんも池や湖など水面に映った満月を見たことがある方も多いのではないでしょうか? 水面に映った月を本物と思う人はいませんし、月が宇宙にあることは皆が知っている事実です。
 しかし私達は時に、水中に映った月を単なる幻影のごとき存在であるのに、実体があるように錯覚してしまいます。 そして実際の人生の中でも、真実を求めず、実体のないものを求め続け苦しんでいるのではないでしょうか。
 この言葉は実体のない月影にこだわらず、その奥にある真理(悟り)を求め日々の生活の中で精進努力することを教えているのです。

合掌

「水滞微(すいたいみ)なりといえども ようやく大器(だいき)に盈(み)つ」

『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう) 巻第14』

 水滞とは水滴のことで、一滴一滴ゆっくりとたれほどのわずかな水量を意味しているわけですが、そんなわずかな水滴でも、長い間には、大きな器を一杯にしてしまうほどたまってしまうものです。
 我々の日々の生活の中で、毎日1時間何かに対して努力したとします。その努力が1年経過すれば、365時間行ったことになります。1日にしてみればわずかな時間ですが、それをこつこつ行っていけば、やがて努力したことが達成されるということをこの言葉は教えてくれています。
 1日に10時間一生懸命努力したとしても、わず僅かな期間で止めてしまえば、物事は達成できないでしょう。
 ホームページをご覧の皆さんも、仏様の教えを1日少しずつ実践して頂き、心を安らかな心境で満たして頂きたいと思います。

合掌

「眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。 正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。」

『法句経 60』

 今年は早くも熱帯夜の日があり、寝苦しい夜を過ごしている方も多いと思います。 床に付きすぐに安眠出来れば問題ないが、眠れない時は本当に夜が長く感じるものであります。
 また上記の一里はインドでの距離を表し、1由旬(ゆじゅん、ヨージャナ)という単位を便宜上一里と表記したと解説にあります。1由旬について正確な距離はわかっておらず、仏教の説では7.2kmとしています。疲れていれば7.2kmの道のりも遠く感じるものであります。
 お釈迦様は時間や距離を例えとし、正しい真理を知らないならば、人生自体が長い道のりであるとお説きになっています。
 我々は日々の生活に追われ、正しい教えがあることを忘れてしまっているのではないでしょうか。
 お釈迦様は一日も早く正しい真理に目覚めてくれるよう、我々にこの教えをお説き下さったと思います。真理を体得し、生死の道のりを安らかなものにしたいものであります。

合掌

「【一切の形成されたものは無常である】諸行無常(しょぎょうむじょう)と明らかな知慧をもって観(み)るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。」

『法句経 277』

 平家物語の冒頭で「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり」とうた詠われているところから、多くの方が「諸行無常」という言葉を知っているのではないでしょうか。
 「諸行無常」とは、この世のあらゆるものはすべて変化しており、何一つ同じ状態にはないということであります。
 我々の命も、日々老い、やがて死すべき運命にあります。お釈迦様は「一切の形成されたものは変化している」ということを明らかな知恵で観ることにより、苦しみから解放され、心身共に清らかになると教えて下さっています。
 すべてが変化していく日々、苦しい日が長く続くことも無いですし、逆に楽な日が続くこともありません。どのような日が来ようとも感謝をして日々を過ごしたいものです。変化する日々の中で明らかな知慧を体得するよう精進し、安心(あんじん)の境地に至りたいものです。

合掌

「無益な語句を千たびかたるよりも、聞いて心の静まる有益な語句を一つ聞くほうがすぐれている。」

『法句経 100』

 生きとし生ける生き物の中で言葉を話せるのは我々人間だけだと思いますが、お釈迦様のこの言葉は、我々の無駄な会話を戒めています。
お釈迦様の教えに「八正道(はっしょうどう)」がありますが、その一つに<正語(しょうご)>があります。<正語>とは、字の如く正しく清らかな言葉を発することを意味します。前回の法語は心についての法語でしたが、心が清らかになってはじめて正しい言葉が語られるのだと思います。
 お釈迦様は弟子たちに 『無駄な会話をするならば、沈黙を守りなさい』 と教え諭したと言われています。そしてもし会話をするならば、 『教えについて語り合いなさい』 とおっしゃったそうです。このように日々心がけることは難しいと思いますが、無益な会話をせず、正しい言葉を選び相手が心休まるような会話を心がけたいものです。
 そしてお釈迦様は自身で語らなくとも、すばらしい言葉を一つ聞く事のほうが優れていると教えて下さっています。お釈迦様の真理の教えを聞き、安らかな心境に至りたいものです。

合掌

「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。 もしも清らかな心で話したり行動したりするならば、福楽はその人につき従う。 影がそのからだから離れないように。」

『法句経 2』

 この言葉は「法句経第1章 ひと組ずつ」の最初の2つの詩の1つであります。
 我々はまず心に思ってから言葉を発したり行動しますが、それらの行為はあまり思惟せずに行っている方が多いのではないでしょうか?
 時には心で熟考し、言葉に出したり行動したりすることがありますが、24時間すべてそのように行動している人はいないと思います。
 だからこそ清らかな心が自分自身の心となるべく努力することが大事なのだと思います。
 この詩のもう片方も紹介したいと思います。

 「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。 もしも汚れた心で話したり行動したりするならば、苦しみはその人につき従う。 車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。」 『法句経 1』

 この2つの詩が1つの真理を表しているのです。つまり汚れた心が常にあるならば苦しみの多い日常になり、逆に清らかな心が常にあるならば、幸せの多い日常になるという事を教えて下さっています。
 HPをご覧の皆様も清らかな心になるべく、日常生活の中で心を整えて頂ければと思います。

合掌

「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみ)こころを起すべし。」

『スッタニパータ149』

 人は大人になるまでに親の愛情を一身に受けて育ちます。特に幼い頃は母親の愛情なくしては順調に育つことも難しいと思います。
 知り合いの方から聞いた話ですが、赤ちゃんにミルクを与える際に、一方は抱っこをして普通にミルクを飲ませ、もう一方は抱かずにミルクを飲ませます。これを長い間行いますと、抱いて飲ませた方は順調に育つのに対し、抱かずに飲ませた方は発育の遅れが見られるようになるそうです。この事から考えますと、抱いてミルクをあげる事により自然と慈しみと愛情が注がれ順調に育つのではないでしょうか。
 仏の教えの中に「一切衆生悉有仏性」という言葉があります。全ての人々は仏になるべく種を持っているという事です。我々人間は誰もが煩悩があり、仏の種を持っていても仏にはなっていない状態である訳であります。そういう中で仏の種を持っている者同士が慈しみの心を起し、お互いを大切に思い合えばやがて煩悩の雲が少しずつ消え、仏の境地に近づく事が出来るのだと思います。
 つまりお釈迦様は全ての人が母親から受けた慈しみや愛情を、人だけでなく全ての生き物に対して持つ事が大切であると教えて下さっています。
 ホームページをご覧の皆さんも慈しみの心を起し、近くにいる方を大切に思う事から始めて頂ければと思います。

合掌

「以前には悪い行いをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。雲を離れた月のように。」

『法句経173』

 今回の法語は、私達がもし過去に悪い行いをしてしまったとしても、挽回出来ることを教えて下さっています。
 人は誰でも悪い事をしてしまう事があります。悪いとわかっていても悪い行いをしてしまう事もありますし、時には自分では気付かない内に悪い行いをしてしまう事もあると思います。
 私達の行動には大きく分けて3つの行いがあります。1つは心に思う事。次に言葉を話す事。もうひとつは行動すること。
 ごくたまに心に思うだけなら何をしても良いという人がおりますが、決してその様な事はないと思います。何故なら心に思う事が、言葉になり行動になるからです。悪い思いを抱いていれば、それがやがて悪い言葉として口について出たり、悪い行動として表現してしまうからです。
 しかし、悪い行いをしてしまっても、その後悪い行いをしないように心がけ善行を繰り返し行っていけば、やがて素晴らしい人格になるのだとお釈迦様は説かれています。
 ホームページをご覧の皆様も、善行を心がけ、雲から離れた満月のように円満な心を確立して頂きたいと思います。

合掌

「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことをみるな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。」

『法句経50』

 2010年10月現在、国連推計で地球上に約69億人の人がいるといわれています。生きている間にその中の何人と縁を結ぶでしょう。今生、日本に生まれそれぞれの地域で色々な人と知り合いになります。とても親切な人もいれば、逆にとても意地悪な人もいるでしょう。日常生活を送る上で必ず人付き合いは生じますし、時には他人の過失が気になることもあるでしょう。
 このお釈迦様の言葉は、私達が日常でしてしまう過ちをするどく指摘しています。他人の悪い所や悪い行動はとかく目に付くものです。しかし、お釈迦様は他人の悪い行いは見てはいけない。他人の行動や言動ではなく、自分の行動、言動だけを見なさいと教えて下さっています。
 この教えを日々実践し、自分の行動を見つめながら少しでも自分の身心を正していく事が大切なのだと思います。

合掌

「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。」

『法句経183』

 この教えを詩に表したのが、有名な「七仏通誡偈(しちぶつつうかいげ)」です。お釈迦様以前に6人の仏様がおられ、お釈迦様を含め「過去七仏」と言われております。この七仏が共通して説いたとされる教えです。 これを詩にしますと以下のようになります。
 「諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶつきょう)」
 仏教の教えは八万四千の法門といわれ、大変沢山の教えがあると言われております。それらの教えを突き詰めていくと、この大変短い教えに集約されるといっても過言ではないと思います。
 教えの通り「悪い事を行なわず、善いこと行い、心を清めていく」ということを頭では理解できても、実践していく事はとても難しいと思います。しかし、日々善行を心がけ、仏の教えを体得するよう精進努力したいものであります。

合掌

合掌

「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である。」

『法句経 5』

 私達は日々の生活を送るなかで、相手からひどい事をされたり、裏切られたりすると、相手を怨んでしまうことがあります。逆に相手にひどい事をしてしまったり、裏切ってしまった時などは、相手から怨まれてしまう事があります。
 お釈迦様は怨まれたときに怨みをもって相手に接するのではなく、怨みの気持ちを捨ててこそ相手の怨みの気持ちも無くなっていくのだとお説きになっております。
 相手に対して怨みを買うような行動は慎み、相手にひどい事をされても耐え忍び、水に流せるような広い心を養いたいものです。
 このお釈迦様の教えに沿って行動し、安らかな日々を送りたいものである。

合掌

「人に生まるるは難し いま生命あるは難し 世にほとけあるは難し ほとけの法を聞くは難し」

『法句経182』

 我々がこの世に生を受ける為には、誰もが両親の縁によってこの世に命を授かる。 両親も又その両親の縁によってこの世に命を授かっている。 今ここに人として命を授かり、何気なく日々を過ごしていますが、命の元である先祖の一人が欠ければ、我々の命はこの世に誕生していません。 今すでに人として生活していること自体が、とても難しいことであるとお釈迦様は教えて下さっています。
 お釈迦様はもうこの世にはおりません。 しかしお釈迦様の教えは書物に記されお経という形で現代に伝わっています。 お釈迦様から直接教えを請うことは出来ませんが、お経の中からお釈迦様の教えを学び、命ある内に仏法を体得するように精進したいものである。

合掌

「匙(さじ)は器につけども、その味を知ることなし」

『法句経64』

 いくら高貴な人物や高貴な宝があっても、その人物の良さや、宝の価値がわからなければ、かえって宝の持ち腐れになってしまう。
 それはちょうど皿のそばに置かれているスプーンがおいしい食べ物を人の口に運ぶ役目を果たしながら、スプーン自身は味を知らないようなものである。
 お釈迦様の直弟子のアーナンダは、25年間もお釈迦様に仕え、熱心にその説法を聞いて、その言葉をよく憶えていたにもかかわらず、悟りを得たのは他の弟子たちよりおそく、お釈迦様の死後であったという。
 私達も日々の生活の中で、お釈迦様の教えをスプーンの立場でなく、食べ物の立場として味わいたいものである。
 そしてお釈迦様の教えを、聞くだけでなく、実践していく事を目標に日々修行に励んで頂きたいと思います。

合掌

「もし自心を知るは すなわち仏心を知るなり 仏心を知るは すなわち衆生の心を知るなり 三心平等なりと知るを すなわち大覚(だいかく)と名づく」

『性霊集』

 煩悩のかたまりである私達の心であるが、実はその本源は宇宙より降りそそぐかけがえのない命である。それはそのまま仏心そのものである。宇宙に光り輝く仏さまの命と同じ心なのである。
 この世に存在している全ての人びと(衆生)の心も又、仏心と同様であり、自心と仏心と衆生心が一体であると覚ったものを偉大なる覚者(大覚)と名づけるのである。

 私達の心の奥底には仏さまと同じ清らかな心があり、それを見つけることが本来の人間としての修行の姿に他ならないと教えているのです。

合掌

「心 暗きときは すなわち 遇(あ)うところ ことごとく 禍(わざわい)なり 眼(まなこ)明らかなれば 途(みち)に触(ふ)れて 皆 宝(たから)なり」

『性霊集』

 仏さまの真実の教えにいまだ触れることができず、暗黒の無知の世界を彷徨(さまよ)っている間は、全てのものが災いとなる。
 しかし、ひとたび心の眼が開いたならば、路傍(ろぼう)に転がる石でさえ、皆、宝石となるという意であります。
 私達も思考を変えてみることや一瞬の閃(ひらめ)きによって、今まで価値のないものと思っていたものが大切な貴いものであることに気付かされたりしたことがあると思います。
 そこには無限の価値の世界が広がっているのです。

合掌

「物の興廃(こうはい)は必ず人に由(よ)る、人の昇沈(しょうちん)は定めて道(どう)に在り。」

『性霊集補闕抄(しょうりょうしゅうほけつしょう)巻第十』

 弘法大師はかねてより儒教・道教・仏教の三教を教える学校を作りたいと願っていたが、大師55歳の時に有名な「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を創設しました。
 当時、大学は都には一つあるだけで、しかも高級役人の養成学校でした。大師は限られた身分のものだけでなく、誰もが学問を受けられる学校を作りたいと願っていたのです。
 その念願の学校を創設した時の校則の中で述べた言葉です。
「ものごとが盛んになるか衰えるかは、全て人を得ることができるかどうかにかかっている。さらに、有能な人が世の中に出ることができるかどうかは偏(ひとえ)に必ず道を実践するかどうかにかかっている。」
 道とは、人が人として尊重される世の中を作ること、身分や家系などに執らわれることなく優秀な人材が認められ活躍することのできる社会を作るためには、そのための正しい道が示されなければならないという意味ではないかと思います。いつの世にも必要な教えではないでしょうか。

合掌

「凡夫(ぼんぷ)の心は合蓮華(ごうれんげ)の如(ごと)く、仏心(ぶっしん)は満月(まんげつ)の如し。」

『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』

 私たち一般の者(凡夫という)の心は、仏さまの真実の教えに未だ触れることがなく、固く閉ざされているため、合蓮華(蓮の花の蕾(つぼみ)に例えた)のようである。
 しかし、ひとたび仏さまの教えに目覚めた時には、誰もが美しく開花する可能性を秘めているのです。
 このように、我々、未完成の心に対して、仏さまの心は満月のように欠けているところがありません。
 私たちも、いつも満月のように明るく穏やかに光る心を持っていきたいものです。
 いつも心に満月を~真言宗では「満月を仏の世界と観想して座禅します」これを月輪観・阿字観(あじかん)といいます。

合掌

「夫れ(それ)仏法、遙か(はるか)にあらず、心中にして即ち近し、真如(しんにょ)外にあらず 身をすてて何(いず)くにか求めん」

『般若心経秘鍵』

 仏さまの教えは遠いところにあるものではなく、自分の心の中にあるものであり、仏教の真理も自分自身の心がけ次第で求めることができる。
 自分というものの外に、いくら求めても求めることはできない。
 同じように幸せというものも、いつも外に求めていても本当の幸せを感じることはできないのではないでしょうか。我々の普段の生活の中に、当たり前の暮らしの中においてこそ、本当の幸せがあるのではないでしょうか。

合掌

「虚空(こくう)尽き 衆生(しゅじょう)尽き 涅槃(ねはん)尽きなば、我が願いも尽きん」

『「性霊集」巻第八』

 弘法大師が832年(天長9年)8月22日に、高野山にて万燈万華会(まんどうまんげえ)を行った時の願文です。この宇宙法界に存在するありとあらゆるもの(人間・動物・植物など全てのもの)が一つ残らず全て仏の境界(悟りの境地)に至ることを願い続けるという意味であります。
 弘法大師の広大無辺なる慈悲を感じる言葉であると共に、自利利他行(じりりたぎょう)の実践を説いているものです。弘法大師は62歳にて入定されたが、今も高野山の奥の院におわし、生きとし生けるものを教化・救済し続けておられます。また、この言葉は、弘法大師入定信仰の原点となっています。

合掌

「生まれ 生まれ 生まれ 生まれて 生(しょう)の始めに暗く 死に 死に 死に 死んで 死の終わりに冥し(くらし)」

『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』

 あらゆる命あるものは無限の生死を繰り返し、未来の果てまで生と死は尽きることはない。また、その生死の流転(るてん)には根源的な自覚はなく永遠に繰り返されていく。私たちの命がどこから来たのか、私たちの父母も知らず 私たちも知る由がない。まして、死の行方とて。
 仏教では本質的な世界に目覚めないことを無明(むみょう)といい、智慧に目覚めた世界を明(みょう)と呼ぶ。深く暗い無知の世界と光り輝く光明(こうみょう)の世界。
  弘法大師が無明の世界を流転する我々、凡夫(ぼんぷ)【一般のもの】に対し、深い自覚を促した言葉である。弘法大師(空海上人)57歳、晩年の作である。
 私たちは大宇宙の本体より生じてきた尊い生命体であり、その命は仏(大日如来)より顕れ出でたものである。
 お互いに尊重し合い、感謝の心で生きていくことが大事なことではないでしょうか。

合掌

「痛狂(つうきょう)は酔わざるを笑い、酷睡(こくすい)は覚者を嘲(あざけ)る」

『般若心経秘鍵』

 完全に狂っている者は正気の者を逆に笑う。例えば酒に酔って本心を失っている者は自分を正しいと思い、酔っていない者を逆に馬鹿にしたりする。
 これと同じように宇宙の道理、人間の根本的な自覚を持たない者(我々、多くのひどく眠りこけている者)は、真実の覚(さと)りを得た者をあざ笑う。
 弘法大師は人間の根源的な自覚、即ち我々が本来、持っている仏さまと同じ資質(仏性)の開顕にいつも思いを持ち、永遠に光り輝く光明世界へと誘(いざな)っておられるのです。

合掌