仏教入門

はじめに

 泉蔵院は真言宗智山派に属する寺院の1つです。
 泉蔵院の歴史を見ていただければ分かりますが、正式名称を『御幣山阿弥陀寺泉蔵院』といいご本尊さまは不動明王です。
 さて、ここまででも大変多くの専門用語が出てきました。 もちろん仏教の知識のある方でしたらある程度分かっていただけると思います。 しかし、なかなか仏教に馴染みのない方ですと、分かっていただけないかもしれません。 これは、例えば外国語のようなものと思っていただければ分かりやすいかもしれません。
 知識のある者には分かり、知識のない者には分からない。 しかし、仏教の教えは果たしてこれでよいのでしょうか? 知識のある者でないと理解することはできないのでしょうか?
 答えは違います。 仏教の祖であるお釈迦さまは、少しでもその教えを求めようとする者にその対象者のレベルに合わせて教えを説きました。 これを「対機説法」といいます。 対象者が子どもなら子どもでも分かる内容や言葉で教えを説いたのです。
 ちなみにお釈迦さまが説いた教えは「八万四千の法門」と呼ばれ膨大な数になります。
 これが古く日本に伝わり、有名な建築では「法隆寺」や有名な仏像では「東大寺の大仏」などを始めとして数々の寺院や仏像が建立されました。 この頃から日本での仏教の歴史は始まり、現在にいたります。
 これから少しずつ、仏教のことはもちろん、その開祖であるお釈迦さまのことやその教えをお話していきたいと思います。
 お釈迦さまの生涯や難しい言葉の解説はもちろん、今現在も行われている仏教の行事や疑問に思っていることなど、少しでも分かりやすくお話をしたいと思っています。

合掌

仏教とは

 この世の中には世界三大宗教とよばれるものを始めとして、多くの宗教があります。 世界三大宗教とは、信仰の多い順に「キリスト教」・「イスラム教」・「仏教」です。 この他にも「ヒンドゥー教」のように多くの信仰者をもつ宗教もあります。 また「儒教」も古典など文学の面から学習して知っている人も多いと思います。
 泉蔵院はもちろんお寺ですから大きく分けると「仏教」という宗教活動を行う場ですが、細かく分けると現在日本にある仏教の中の「真言宗」さらにはその中の派の1つ「智山派」になります。
 仏教入門としてお話をするにあたり「仏教」そのものを考えていきたいと思います。
 「仏教」という書き表せば、わずか漢字2文字の言葉ですが、これは大きく分けて2通りの解釈ができると思います。
 1つは「仏さまの教え」というように読み取れます。 仏の教えとは、すなわち仏教の開祖であるお釈迦さまが実際に悟り、説法して、現在に伝えられている教えそのものと考えることができます。 また、一般的に「仏教」というと、このように考える人がほとんどだと思います。
 2つ目は「仏さまになる教え」というように読み取れます。 仏さまになる教えとは、私たちが仏さまになるための内容や方法などと考えることができます。 ちなみに、私たち「真言宗」の宗祖は弘法大師さま(=空海)ですが、弘法大師さまは「即身成仏」(そくしんじょうぶつ)という教えを私たちにお示しくださいました。
 「仏教」というものを理解していくにあたり、開祖であるお釈迦さまのことをお話したいと思います。

合掌

お釈迦さま

 お釈迦さまは実在した人物です。 今から約2,500年前に現在のネパールにあるルンビニーというところで生まれました。 本当の名前は、ゴーダマシッダールタといいます。 父親はスッドーダナ(=浄飯王)で古代インドの釈迦族の王でした。 母親はマヤ(=摩耶夫人)です。
 生まれたのは4月8日です。 この日は、泉蔵院はもちろんそうですが、全国の寺院では「花まつり」という法要を行っている寺院が多くあります。 お釈迦さまが生まれたときの様子は、この「花まつり」とも大きく関わってきます。
 母親のマヤ(=摩耶夫人)は、ある時不思議な夢を見ました。白くて牙が6本ある象が現れて、右の脇腹に入る夢を見ました。 それと同時にお釈迦さまを懐妊しました。
 懐妊してから時は経ち、マヤ(=摩耶夫人)は出産のため里帰りをすることになりました。その旅の途中でルンビニーというところで休憩をします。 そこの花咲く無憂樹の枝を取ろうと手を伸ばした時、右の脇腹からお釈迦さまが生まれました。
 伝説では、お釈迦さまが生まれた時、すぐに7歩歩いて「天上天下唯我独尊」とう言葉を発します。 これに喜んだ天の竜が感激して甘露の雨を降らしました。 すると、空から甘露の雨のみならず、数々の花が咲き乱れ、お釈迦さまに降り注ぎました。
 この時の様子を表したのが「花まつり」で、お釈迦さまに甘茶をかけて供養するのはこの甘露の雨の様子を表し、多くの花で飾られた御堂(=花御堂)もこのときの様子を表しています。
 ちなみに『スッタニパータ』という仏教の教典にも、お釈迦さまが生まれたときの様子が説かれています。
 お釈迦さまが誕生したことで、多くの神々が喜んでいる様子をアシタ仙人という人物が目撃し「どうしてそれほどまでに喜んでいるのですか?」と尋ねました。 すると、神々は「釈迦族の村に無二の宝である未来の仏が、諸人を救済し安楽を与えるために生まれたのです。私たちはこのことがとても嬉しいのです」と答えたのです。

 これを聞いたアシタ仙人は、どうしても生まれたばかりのお釈迦さまに会いたくなり、カピラ城に出向いたのです。 ちなみに、このカピラ城は、お釈迦さまの父親であるスッドーダナ(=浄飯王)が治めていた国です。
 アシタ仙人は、幼きお釈迦さまを抱きかかえると、呪文を唱え人相を調べました。すると、アシタ仙人は突然泣き始めたのです。 これに驚いたのは父親であるスッドーダナ(=浄飯王)です。泣いているアシタ仙人を見て、幼き我が子に災いがあるのではないかと心配になったのです。 しかし、泣いていた理由は災いがあったからではありませんでした。
  アシタ仙人は「この王子は必ず最高の悟りに達するでしょう。 多くの衆生をあわれみ、法を説くことでしょう。 しかし残念なことに私はこのように年老いているために、王子が将来法を説いてくださる前に、この世を去ってしまいます。 この王子の教えを聞けないことがとても悲しくて泣いてしまったのです」と言いました。
 城から帰るとき、アシタ仙人は一緒に連れてきた甥っ子のナーラカに「いずれ真理に目覚めた人が教えを説いているとの噂を聞いたなら、必ずその人の元に行って、教えを聞きなさい」と伝えました。 ちなみに、数十年後に、このナーラカはお釈迦さまと対面することになります。
 多くの祝福を受けて生まれたお釈迦さまに悲劇が起こりました。 それは、母親であるマヤ(=摩耶夫人)が7日目に亡くなってしまうのです。 その為、お釈迦さまを育てたのはマヤ(=摩耶夫人)の妹であるマハー・パージャパティでした。 ちなみに、異母兄弟ではありますが、弟のナンダともに釈迦族の王子として成長していきました。
 順調に年を重ね、釈迦族の王子として期待されてきたお釈迦さまですが、16歳で1つの転機が訪れました。 それは、結婚です。 ご存じない方もいるかもしれませんがお釈迦さまは結婚していたのです。

 16歳になったお釈迦さまは、ヤショーダラ(=耶輸陀羅)という女性と結婚をします。 そして、なかなか子どもに恵まれませんでしたが、ようやくラーフラ(=羅ご羅、ご→目偏に候)が生まれました。 ちなみに、このラーフラは後に悟ったお釈迦さまのもとに出家して、釈迦の十大弟子のひとりとなります。
 結婚もして、釈迦族の王子として何不自由ない生活を送っていたお釈迦さまでしたが、どちらかというとひとり物思いにふけることも多くありました。 若くして母親を亡くしたお釈迦さまはすでに「死」というものに対して考えるところがあったのです。
 ある時、父親のスッドーダナ(=浄飯王)が物思いにふけるお釈迦さまが気分転換になるように外に出るように勧めました。 ちなみに、住まいであったカピラ城には東西南北にそれぞれ門がありました。 外へ出るためにはこれらの門より外へ出る必要があります。
 お釈迦さまは、従者とともに東の門より外へ出ました。 すると白髪の老人が杖をつきながらようやく歩いているところでした。 この姿を見たお釈迦さまは、どうすることもなく老いる姿にがっかりして城へと戻りました。
 日を改めて、今度は南の門より外へと出ました。 すると病気で道端に倒れ込んでいる人がいました。 この姿を見たお釈迦さまは、不安な思いをかかえ城へと戻りました。
 また日を改めて、今度は西の門から外へ出ました。 すると遺体を火葬しているところに遭遇しました。 この様子をみたお釈迦さまは大きく落胆して城へと戻りました。
 気分転換の為に外へ出るはずが、どうすることもできない「老」・「病」・「死」というものを目の当たりにして、今まで以上に物思いにひとり悩む時間が増えてしまいました。
 最後に、残された北の門より外へ出ることにしました。 すると、ひとりの出家者と出会いました。その出家者の姿勢に感銘を受けました。 この出家者との出会いがお釈迦さまの将来を大きく左右することになりました。 そして、次第に出家を決意するようになります。
 ちなみに、これは「四門出遊」という有名なお話です。

 無事に出家を果たしたお釈迦さまは、カピラ城の南の方角にあるマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)を目指します。 当時のマガダ国は大きな都市であり、様々な人がいました。 なぜマガダ国を目指したかというと「マガダ国には弟子300人を従える仙人がいる」という話が、カピラ城まで届いていたからです。
 その仙人はアーラーラ・カーラーマという仙人でした。 お釈迦さまはまずアーラーラ・カーラーマより禅定(瞑想)を教わります。
 お釈迦さまはアーラーラ・カーラーマに「生・老・病・死の悩みや憂いはどうしたら除かれるのでしょうか?」と質問しています。 その答えとしてアーラーラ・カーラーマは禅定(瞑想)により解決できるとお釈迦さまに教えたのです。
 アーラーラ・カーラーマのもと修行を始めたお釈迦さまでしたが、瞬く間にアーラーラ・カーラーマの教えを理解してしまいました。 その教えは「無所有処」(むしょうしょ)と言い「所有することが何もない状態」=「欲望を捨て去った状態」のことです。 しかし、それが本来の悩みである「生・老・病・死」の解決にならないとお釈迦さまは思い、仙人のもとを離れました。
 次にお釈迦さまは弟子700人を従えるウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとを訪れました。 お釈迦さまはウッダカ・ラーマプッタより教わり禅定を行いますが、瞬く間にウッダカ・ラーマプッタの教えを理解してしまいました。 その教えは「悲想非非想処」(ひそうひひそうじょ)と言い「想うこともなく思わないこともない」=「とらわれるものがあるのでもないのでもない状態」のことです。 しかし、これも本来の悩みである「生・老・病・死」の解決にならないとお釈迦さまは思い、仙人のもとを離れました。
 お釈迦さまはこの悩みの解決は、人から教わるのではなく、自分で解決しなければいけないと思い、自ら修行を行おうと考えます。


 自ら修行を行おうと考えたお釈迦さまは、当時インドで行われていた「苦行」を始めることにしました。 この「苦行」とは、漢字の通り苦しい修行をすることです。 例えば、水中で窒息するくらい息を止めたり、何日間も断食をしたりという耐え難いものでした。 では、なぜ「苦行」を行うかというと、当時の人々は、自分身体を徹底的に苦しめ追い込むことで、余計なことを考えなくなり、余計なことを考えなければ悪い考えはなくなり、心がきれいになると考えていたのです。
 この「苦行」を行う修行者たちが集まる「苦行林」という場所があり、お釈迦さまはそこで5人の修行者と共に苦行を始めました。
 断食を中心に、さまざまな苦行を始めて6年が経ちました。 この間、何度も悪魔の誘惑に負けそうになったことがありました。 それでも、お釈迦さまは悪魔に負けす「苦行」を続けていました。
 しかし、ある時お釈迦さまはふと疑問を感じるようになりました。 それは、このまま「苦行」を続けていても身体と精神をダメにしてしまうだけで、何も得ることができないと感じたのです。
 他の修行者から尊敬されていたお釈迦さまですが、ついに「苦行林」から出ることにしました。 まずは身体を清めるために近くを流れていたナイランジャナー河で沐浴をすることにしました。 ただ、厳しい「苦行」を続けたお釈迦さまは身体がとても弱っていて、倒れてしまいます。 これを近くの村のスジャーターという娘がお釈迦さを助け、施しをいたしました。
 この時お釈迦さまが口にしたのが乳がゆです。 すると、共に修行をしていた修行者たちは、お釈迦さまが食べ物を口にしたことや女性から施しを受けたことに驚き、口々に「ゴーダマは堕落した」などと言って愚弄し、お釈迦さまのもとを去っていきました。
 乳がゆの施しを受けたお釈迦さまは、アシュヴァッタ樹の下に座り瞑想を始めました。 この間も多くの悪魔がやってきてお釈迦さまを誘惑してきます。 しかし、お釈迦さまは負けることはありませんでした。 そして、いよいよ悟りへの道が近づいてきました。

 アシュヴァッタ樹の下に座り瞑想を始めてから49日目、お釈迦さまはついに悟りをひらきました。 この時お釈迦さまは35歳の12月8日のことでした。 ちなみにこの時に悟ったものは「縁起」(えんぎ)や「四諦八正道」(したいはっしょうどう)と伝えられています。
 悟りを得たことに人生が極まったと考えたお釈迦さまは、さらに49日瞑想をしてその余韻に浸りながら絶食して死を選ぼうとしていました。 そこへインドの神である梵天(ブラフマン)がお釈迦さまのもとを訪れて「どうかあなたが悟ったものを伝えてほしい」とお願いをします。 しかし、お釈迦さまは「私が今ここで悟ったものは言葉にするには難しく理解しがたいものだ」と言って断ります。 それでも梵天はあきらめることなくお願いをします。 そして、ようやく3回目でお釈迦さまは悟りを広める決意をしました。 これを「梵天勧請」(ぼんてんかんじょう)といいます。
 悟りの内容を広めるべく、お釈迦さまが最初に向かったのはサールナートという場所でした。 ちなみにこのサールナートは鹿の住む林だったことから鹿野苑(ろくやおん)とも呼ばれています。 なぜここに向かったかというと、共に修行(苦行)をしていた5人の修行者たちがここにいたのです。 お釈迦さまは、自分の悟りをまずこの5人に話すのが適正だと考えたのです。
 ただし、5人の修行者からみれば、お釈迦さまは堕落したものと見ていましたので、突然自分たちのもとを訪れたお釈迦さまに「堕落したものが戻ってきた」などと汚い言葉を並べてバカにしました。 するとお釈迦さまは「悟ったものにそのような言葉を申すべきではない」と答えました。 5人の修行者たちは今までと違う言葉づかいとその様子に驚き、最初は拒んでいましたが、お釈迦さまが説くその教えを受け入れることにしました。
 これはお釈迦さまが初めて説法したことから「初転法輪」(しょてんぼうりん)と言い、この5人の修行者は最初のお釈迦さまの弟子となりました。
 ここから仏教は始まっていくのです。

 最初の説法を行ったお釈迦さまは、各地を回り説法を続けました。 その間に多くの人がお釈迦さまの教えに帰依し弟子となっていきました。1,000人以上の弟子を迎えたお釈迦さまはやがてマガダ国の首都であるラージャクリハ(王舎城)へと向かいます。 この弟子の中には、有名な弟子である親友同士のシャーリプトラ(舎利弗)やモッガラーナ(目連)もすでに含まれていました。
 このラージャクリハ(王舎城)へと向かったことには理由があります。 それは、マガダ国の国王であるビンビサーラ王(頻婆娑羅)との約束を守るためでした。 その約束とは、ビンビサーラ王(頻婆娑羅)が悟りをひらく前にお釈迦さまに「悟りを得られたときは、私の為に最初に教えを説いてほしい」とお願いをしていたからです。
 しかし、マガダ国で有名だったのはカッサパ3兄弟という宗教者でした。 長男のウルヴェーラ・カッサパ、二男のナディー・カッサパ、三男のガヤー・カッサパの3人です。
 すでにお釈迦さまがラージャクリハ(王舎城)へ入る前に、この3人はお釈迦さまの弟子となっていました。 でも、マガダ国の人たちは、お釈迦さまとカッサパ3兄弟とどちらが偉いのかは分かりませんでした。
 そこで、カッサパ3兄弟はわざと人々の目の前で、お釈迦さまに礼拝することにしました。 カッサパ3兄弟が礼拝したことにより、お釈迦さまの存在はラージャクリハ(王舎城)に広まっていきました。
 また、国王のビンビサーラ王(頻婆娑羅)も当初の約束どおりお釈迦さまに帰依することになりました。 ビンビサーラ王(頻婆娑羅)はラージャクリハ(王舎城)の郊外にあった竹林にお寺を建てることにしました。 お寺と言っても、雨風をしのぐ程度の建物でしたが、この建物は「竹林精舎」と言われ、世界で最初のお寺となりました。

 その後もお釈迦さまは各地で説法を続けます。 その間、お釈迦さまに弟子入りする人や帰依する人も増えていき、有名な「祇園精舎」などの寄進も受けるようになっていきました。
 しかし、重大な知らせがお釈迦さまのもとへ届きました。それは、ビンビサーラ王(頻婆娑羅)がお亡くなりになったという話です。
 ビンビサーラ王(頻婆娑羅)とイダイケ夫人(韋提希)には後継ぎがいませんでした。 これではマガダ国の将来も不安です。 バラモンに頼むと「北の山奥で修行をしている仙人があと3年後に亡くなって、その生まれ変わりが子どもとして生まれる」との占いがでました。 しかし、高齢であったビンビサーラ王(頻婆娑羅)は3年待つことができずに、家来たちに仙人の命を奪うように命令しました。 そして、仙人はビンビサーラ王(頻婆娑羅)への恨みを抱き「生まれ変わって必ず復讐する」という言葉を残し、息を引き取りました。
 すると、不思議なことにイダイケ夫人(韋提希)は懐妊しました。 ただ、ビンビサーラ王(頻婆娑羅)は仙人の言葉が忘れられず、自分の身の危険を感じ、生まれたばかりのアジャセ王子(阿闍世)を塔の頂より産み落とすようにイダイケ夫人(韋提希)に命令しました。 しかし、奇跡的に小指を怪我しただけで一命を取りとめました。
 自分の行動を反省したビンビサーラ王(頻婆娑羅)は、アジャセ王子(阿闍世)を可愛がりました。 親に殺されかけたことも知らないアジャセ王子(阿闍世)は、やがて立派な王子へと成長しました。
 しばらくするとラージャクリハ(王舎城)へダイバダッタ(提婆達多)というひとりの修行僧がやってきました。 そして、アジャセ王子(阿闍世)に出生の秘密を暴露したのです。 怒ったアジャセ王子(阿闍世)は父親であるビンビサーラ王(頻婆娑羅)を塔の牢獄へ幽閉したのです。
 ダイバダッタ(提婆達多)はお釈迦さまのいとこになりますが、お釈迦さまの教団の乗っ取ろうとしていました。 その為には、国王という強大な力が必要と考えたのです。そして、アジャセ王子(阿闍世)に近づいたのでした。

 ビンビサーラ王(頻婆娑羅)がアジャセ王子(阿闍世)によって牢獄へ幽閉されたことを知ったイダイケ夫人(韋提希)はひどく悲しみました。 そして、毎日のように牢獄の前に通っては、泣き続けていました。
 さすがに母親の様子を哀れに思ったアジャセ王子(阿闍世)は、1日だけ面会を許すことにしました。 イダイケ夫人(韋提希)は、幽閉されて食事も満足に与えられていないビンビサーラ王(頻婆娑羅)のために、全身に蜂蜜を塗り、栄養を与えようと考えていました。 しかし、この事実を知ったアジャセ王子(阿闍世)は激怒し、これ以降ビンビサーラ王(頻婆娑羅)に会うことも近づくことも許しませんでした。
 ある時、アジャセ王子(阿闍世)の息子が皮膚の病気にかかりました。 父親であるアジャセ王子(阿闍世)は息子の皮膚の膿を吸い出して吐き出しました。 すると、それを見た息子は驚き泣き出しました。
 その様子を見ていたイダイケ夫人(韋提希)は「父親のビンビサーラ王(頻婆娑羅)も同じように膿を吸い出していました。 しかし、あなたが驚くと思って決して吐き出さず全部飲み込んでいたのです」と過去にアジャセ王子(阿闍世)が同じ病気になった時のことを話しました。  そこで初めてアジャセ王子(阿闍世)は父親の偉大さを感じ、自分の行いをひどく恥じました。 そして直ちに幽閉されている父親を開放しようと家来たちと共に牢獄へ走りました。
 ところが、大勢で駆け上がってくる足音を聞いたビンビサーラ王(頻婆娑羅)は、自分を殺しに来たと勘違いをしてしまいました。 息子のアジャセ王子(阿闍世)を父親殺しの大罪を背負わせてはいけないと思い自ら命を絶ったのです。
 アジャセ王子(阿闍世)は父親を死に追いやってしまった罪の深さからついには病気になってしましました。 全身に激痛が走り、皮膚は鼻を刺すような臭いとなり、誰も近づけません。 それでも母親のイダイケ夫人(韋提希)は献身的に看病しました。 そこで、改めて父親の偉大さとともに母親の慈愛の深さを感じました。
 やがて、アジャセ王子(阿闍世)は父親のビンビサーラ王(頻婆娑羅)が尊敬していたお釈迦さまを訪ねました。 そして、父親同様にその教えに帰依することになりました。

 35歳で悟りをひらいたお釈迦さまですが、ずっと各地を回り、その教えを説いていました。 しかし、お釈迦さまにもいよいよ最期を迎えようとしていました。
 お釈迦さまは80歳になっていました。 これが最後の旅だと感じたお釈迦さまは、ラージャクリハ(王舎城)から故郷のカピラヴァストゥへ向かう決心をしました。
 その途中でパーヴァー村に立ち寄り、鍛冶屋の子チュンダに教えを説きました。 チュンダは以前お釈迦さまがこのパーヴァー村に立ち寄った時に帰依した熱心な信者だったのです。
 お釈迦さまがこの地に再び来ることに喜んだチュンダは、貧しいにも関わらず最高のおもてなしをしようと考え、できる限りの料理を準備してお釈迦さまを迎えました。 お釈迦さまもこのおもてなしを大変喜び、チュンダの供養を受けることにしました。
 ところが、チュンダが心をこめて作ったこの料理は、お釈迦さまの弱った身体には合うこともなく、本来食べてはいけないものが含まれていました。
 お釈迦さまはすぐに気が付きましたが、チュンダの好意を粗末に扱うことはできませんでした。 そこで、お釈迦さまはチュンダにそれとなく他の者には食べさせないように話しました。
 間もなくして、お釈迦さまは激しい腹痛と下痢に悩まされました。 しかし、クシナガラを目指して出発しました。
 ただ、思いのほか身体の調子は悪く、クシナガラへ向かう途中のカクッター川の川岸で1本の木の根元に座り、アーナンダ(阿難)を呼びました。
 そして「2つの尊い供養」について話しました。 この供養には「等しい果報があり、他の供養の食物よりも優れたものであり、大いなる功徳がある」と言って、その供養がスジャーターの供養であることとチュンダの供養であることを告げました。
 「鍛冶工の子チュンダが、もし自分の差し出した供養の食物を食べて私(=お釈迦さま)亡くなったと後悔するようなことがあったら、そうではない。 チュンダの行った供養は優れたものであり、大いなる功徳がある。 それは、この供養の食物を食べて、私は完全な悟りを達成し、煩悩のないニルヴァーナ(涅槃)の境地に入ることができる」とアーナンダ(阿難)に告げたのです。

 ようやくクシナガラに着いたお釈迦さまは「私のために、2本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してほしい。私は疲れた。横になりたい」とアーナンダ(阿難)にお願いをしました。
 すると、不思議なことにサーラ樹(沙羅双樹)が季節ではないのに白い花を瞬く間に咲かせました。 その花は自然にお釈迦さまへと降り注ぎ、お釈迦さまを供養しました。
 また、合わせて天上から香華がお釈迦さまのもとへ降り注ぎ、空中では天子や天女が音楽を奏でてお釈迦さまの供養を始めました。
 しかし、お釈迦さまはアーナンダ(阿難)に「このような香華や音楽による供養は真の供養ではない。真の供養とは如来を尊び供養を施すことであり、それは教えを正しく実践することである」と言って最期の説法を始めました。
 しばらく修行者たちに教えを説いていたお釈迦さまですが「私が説いた教えと戒律が、私の死後みなの師となる」と言い、最後に「もろもろの事象は過ぎ去るものである。おこたることなく修行を完成しなさい」と言って安らかに最期を迎えることになりました。これは2月15日の満月の日でした。
 お釈迦さまのお身体は、火葬して供養されました。 その後、遺骨(仏舎利)はマガダ国や釈迦族などを中心に8つに分けられました。 特にマガダ国のラージャクリハ(王舎城)では、アジャセ王(阿闍世)が直ちにストゥーパ(仏塔)を建立し、お釈迦さまの功徳をたたえ供養しました。
 後にアショーカ王がその8つに分けられた遺骨(仏舎利)を分配し、最終的には8万4千(膨大な量のたとえ)という膨大な数のストゥーパ(仏塔)が建立されたと伝えられています。
 そして、お釈迦さまが入滅されてもその教えは絶えることなく続き、ここ泉蔵寺はもちろん、多くの僧侶や信者に受け継がれています。
 以上お釈迦さまについてその生涯を簡単ですがお話をしてきました。 お釈迦さまは80年という生涯の中で8万4千(膨大な量のたとえ)の教えを残し、今に受け継がれているのです。

合掌

弘法大師

 真言宗の開祖である弘法大師(=空海)についてお話をしていきたいと思います。
 空海という名前は、日本の天台宗の開祖最澄とともに教科書などで目にしたことがあると思います。 教科書の知識として、最澄とともに唐(=中国)にわたり、密教を日本に持ち帰り、高野山を開山し、日本に密教を広めた人物として書かれていることが多いようです。 しかし、空海という人物は、教科書では書ききれないほどの多くの教えを今の日本にも残し、ここ泉蔵院をはじめ多くの真言宗の僧侶や檀徒に受け継がれています。 密教と言われてもなかなかこの言葉を説明するのは難しいと思います。 特に、密教の教えでも「即身成仏」という教えは、従来の仏教とは全く違う教えなのです。
 まずは、空海の生涯をわかりやすくお話ししていきたいと思います。
 空海は、宝亀5年(774年)6月15日に讃岐国多度郡屏風浦(さぬきのくにたどごおりびょうぶがうら)という現在の香川県善通寺市に生まれました。 幼名は佐伯真魚(さえきまお)と言います。 父は地元の有名な豪族の佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)で、母は玉依御前(たまよりごぜん)です。 玉依御前(たまよりごぜん)は阿刀大足(あとのおおたり)の妹と伝えられています。 ちなみに、阿刀大足(あとのおおたり)は、奈良時代に日本の仏教の中心となっていた南都六宗の法相宗の教えなどを継承する学者でした。
 真魚(まお)は、幼少期より仏心があり、土で仏さまを作っては拝んでいました。 人々は、真魚(まお)のこの大変優れた様子を見て、貴物(とうともの)と呼び大切に育てられました。
 真魚(まお)が7歳の時の話です。 地元の讃岐国多度郡の我拝師山(がはいしさん)の頂上へと登りました。 そこで「私は将来仏門に入り多くの人を救いたいと思います。 もし私が将来必要とされる存在ならば命を助けてください。 私が必要でないならば、喜んでこの身を仏さまに捧げます」と言って、頂上の崖から身を投げてしまいました。

 山の頂上から身を投げた真魚(まお)ですが、大変不思議なことが起こりました。 天女が現れて、真魚(まお)を優しく抱え助けたのです。 同時に紫の雲の中からお釈迦さまが現れて「大願成就」という真魚(まお)のお願いは必ず叶うと約束しました。
 この我拝師山(がはいしさん)の頂上は真魚(まお)が身を投げたことから「捨身ヶ嶽」と言われ、成人になった後にお釈迦さまをご本尊とした「出釋迦寺」(しゅっしゃかじ)を建立いたしました。 現在は四国八十八ヶ所霊場第七十三番札所となっています。
 真魚(まお)は自分の大願を成就すべく勉学に勤しみました。 母方の阿刀氏の力もあり、15歳を過ぎるころには都へ上がり、論語を習得していました。 さらに高みを目指す真魚(真魚)は18歳で大学に入学しました。 しかし、大学での学問は儒教などが中心でしたが、それは自身の立身出世を目的としたものであり、自身の目指した「人々を救いたい」という思いからかけ離れたものでした。 そして、19歳で大学を退学してしまいました。
 人々を救う道を求めた真魚(まお)は、ある沙門(修行僧)より「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)という秘術があることを聞かされました。 この秘術は、虚空蔵菩薩のご真言を百万返と唱えることによって、計り知れない記憶力をもてるという秘術です。 ただし、簡単に修する(=行う)ことができない荒行でした。
 真魚(まお)は、この時から私度僧として山岳修行などに励みました。  私度僧とは、正式に朝廷から認められていない僧侶のことを指します。 吉野の大峰山などの山々で山岳修行を重ねた真魚(まお)は、四国へと戻り、そこでも続けて山岳修行に励みました。
 修行を続ける途中で、真魚(まお)は現在の高知県にあたる土佐国(とさのくに)の室戸岬にいました。 岬の前には広大な海と空が広がり、目の前の妨げるものはありません。 この景色を前に「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)を成功させたいと思った真魚(まお)は、ここで「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)の成満(=達成)を目指し修行を始めました。

 大変な荒行でしたが、真魚(まお)は「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)を休むことなく続けました。
 ある夜のことでした。目の前に広がる海の向こうに明星(=光る星)を見つけました。 しかし、驚くことに明星がだんだんと大きくなるとともに、自分のもとへ飛んできました。 その明星は、目にもとまらぬ速さで真魚(まお)の口から体内に入りました。
 これは、虚空蔵菩薩が明星となって真魚(まお)の体内に入ったということになりますので、真魚(まお)は「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)の成満(=達成)したと考えることができのです。
 その後、東大寺で出家の戒律である具足戒を授かった真魚(まお)は、名前を空海(くうかい)と改名します。 この名前は、室戸岬で「わが心空の如く、わが心海の如く」という体験したことから自ら付けた名前と伝えられています。
 延暦16年(797年)12月1日、24歳になった空海は『聾瞽指帰』(ろうこしいき)を記しました。 これは、後に『三教指帰』(さんごうしいき)と呼ばれるもので、儒教・道教・仏教を比較していかに仏教が優れているかを記したもので、仏道を志す強い決心を記したものでした。
 これは、空海と『大日経』の出会いが大きく影響しています。 東大寺で受戒をした空海は、夢のお告げを受けていました。このお告げによると「久米寺の東塔に探し求めるものがある」というものでした。 空海はお告げの通り久米寺の東塔から『大日経』というお経を発見しました。 このお経は正式には『大毘盧遮那成仏神変加持経』というもので、今まで空海が読んできたお経とはまったく内容の違う難しいものでした。 そのため、この『大日経』をより勉強しようにも、日本にはこのお経について内容を理解して教えてくれる人はいませんでした。
 空海はこの『大日経』との出会いによって、より深い仏の教えを理解したいという気持ちが大きくなり、唐に渡りたいという強い思いを持つようになりました。

 実際に空海が唐に渡ったのは延暦23年(804年)のことでした。 実に空海が『聾瞽指帰』(ろうこしいき)を記した延暦16年(797年)から7年の月日が経っています。 しかし、この7年間の空海の足取りは全く分かっていません。
 この7年間は特に「空白の7年」とされ、空海が遣唐使船に乗るために資金を集めていたことやより厳しい修行をしていたことなどが推測されていますが、まったく資料が存在していないのです。
 ただし、突然延暦23年(804年)になると、空海が東大寺にて受戒(戒律を授かり正式に出家すること)したとの記録が『続日本後記』に記されています。 これにより空海は正式に僧侶として認められることになりました。
 そして、運命の出会いがあります。 後に比叡山延暦寺を建立し日本で天台宗を広めた最澄と同じ遣唐使の一団として唐に向かうことになったのです。 ただ、すでに時の天皇である桓武天皇から僧侶として高い信頼を得ていた最澄は「還学生(げんがくしょう)」という身分で、当時は名もない僧侶の1人だった空海は「留学生(るがくしょう)」という身分でした。 ちなみに、最澄は「還学生(げんがくしょう)」として1年で帰国が許されていましが、空海は「留学生(るがくしょう)」として20年間帰国が許されていませんでした。
 そして、延暦23年(804年)5月12日4隻の遣唐使船が出発をしました。 空海は遣唐大使の藤原葛野麻呂(かどのまろ)や橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に第一船に乗りました。 ちなにに最澄は第二船に乗っていました。
 しかし、出航して2日目の夜に嵐に遭い、4艘のうち第3船は沈没、第4船は沈没の確証すらないまま行方知れず、最澄の乗る第2船とも離れ離れになってしまいました。 そして、空海の乗った第1船は、その後34日間漂流することになります。
 8月10日やっとの思いで中国大陸福州赤岸鎮(せきがんちん)の南に漂着しましたが、傷んだ船や身なりから判断され、最初は上陸することができませんでした。
 また、赤岸鎮(せきがんちん)では上陸申請することができなかったため、そのまま海路で福州まで向かうことになりました。

 空海を乗せた第1船は、10月3日、福州に到着しました。 しかし、大使の藤原葛野麻呂(かどのまろ)がいたにも関わらず、国書も印符もないために一行は罪人扱いのまま上陸も許されませんでした。
 大使の藤原葛野麻呂(かどのまろ)は、福州の地方長官である閻済美(えんせいび)に何度か文章をもって交渉しましたが、まったく相手にされなかったようです。
 そこで、空海が文章を代わりに書くと、その文章の内容に感動して即座に上陸を許可しました。 そして、39日後にいよいよ長安からの勅使が一行を迎えるためにやってきました。 しかし、長安に行ける使節団の名簿の中に空海の名前はありませんでした。 長安に行けなければ、空海本人も命をかけて唐まできた意味がありません。 そこで、空海はもう一度その気持ちを文章にして書き表したところ、閻済美(えんせいび)は心を動かされ使節団の名簿の中に空海が加えられました。
 そして12月23日に念願の長安にたどり着きました。 その当時の長安は、人口100万人といわれたシルクロードの大都市で、見るものすべてが今までにないものでした。 空海は長安の西明寺にしばらく留まりながら多くの文化を学んでいました。 これは後に空海が記した『御請来目録』に残されています。
 この西明寺には多くの僧侶がいました。 その僧侶たちの中でも知らない人はいないと言われた人が青龍寺の恵果(けいか)でした。
 この恵果は、密教のすべての教えを伝えられている人物で、1,000人の弟子がいました。 しかし、空海はすぐに会いにいきませんでした。 理由は、まだ長安にて学ぶことがあったためとされています。
 そして、空海はいよいよ恵果のいる青龍寺を訪ねました。 すると、恵果は空海を見るなり、笑みを含んで歓喜して「私はあなたが来るのを以前よりずっと待っていた。 今日こうして会うことができてとても嬉しい。 自分は寿命が尽きようとしている。 しかし法を伝えるべき人がいなかった。 すぐにでも密教の全てを授けよう」と言ったのです。
 空海にとってはとても衝撃的なことでした。

 自分の寿命を知っていた恵果は、密教のすべてを空海に授けるべく「灌頂」(かんじょう)の儀式を急ぎました。 そして、空海は、胎蔵界(たいぞうかい)・金剛界(こんごうかい)の灌頂を受け、さらには正統な密教の師となる伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の灌頂を受け、真言密教の第8番目の祖となりました。
 真言密教は、インドより伝わる『金剛頂経』(こんごうちょうきょう)という経典と『大日経』(だいにちきょう)という経典のそれぞれを中心とする2つの流れがありましたが、その2つの流れを受け継いだのが恵果でした。 そして、恵果はそのすべてを空海に授けたのです。
 空海はその素晴らしい教えに感動し、一刻も早く日本に戻りその教えを広めたいと思っていました。 なぜなら、恵果もそれを希望していたのです。 しかし、空海にすべてを授けた恵果は間もなく延暦24年(805年)12月15日に入寂してしまいました。
 そして空海は、日本に帰る前、明州の港から恵果から授かった数々の密教経典や法具の中のひとつ「三鈷杵」(さんこしょ)を「私が学んだ密教のすべてを広める根本道場としてふさわしい場所を示すように」というお願いを込めて空へ投げたところ、その「三鈷杵」(さんこしょ)は紫の雲とともに遥か彼方へと飛んでいきました。
 空海は遣唐副使の高階真人遠成(たかしなのまひととおなり)や橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに無事に帰国をはたして大宰府に入りました。 遣唐使の使節団は、帰国後すぐに都に入れるわけではなく、朝廷から正式に発行される沙汰書をもって都に入ることができるのです。 しかし、空海に沙汰書は発行されませんでした。 なぜならば、空海は20年という留学の期間をわずか2年で戻ってきてしまったことにより、罪人として扱われたのです。 そこで空海は『御請来目録』の作成を急ぎました。 そして、この『御請来目録』を高階真人遠成(たかしなのまひととおなり)に託し、朝廷に献上するようにお願いしました。
 高階真人遠成(たかしなのまひととおなり)が都へと上京した後、空海は大宰府の観世音寺に留まることとなりました。

 空海は観世音寺に留まった後、空海は和泉国の槇尾山寺に移りました。 そのころ都では、先に帰国した最澄が天台宗を広め、奈良の仏教とは対立関係にあったと思われます。 桓武天皇の後の平城天皇が病の為に譲位し、嵯峨天皇が即位をしていました。
 大同4年(809年)和泉国の国司に対し朝廷より「空海を京に住まわせよ」という官符が下りました。 これにより空海はようやく都へ入ることができるようになりました。
 都へ入った空海は、ます高雄山寺(現在の神護寺)に入りました。 すると、間もなく嵯峨天皇の使者がやってきて屏風の揮毫を指示しました。 書に優れた空海は難なく書を書き上げました。 嵯峨天皇は、空海と橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に三筆といわれる書の達人でした。 この屏風の揮毫を通し、空海と嵯峨天皇は非常に親密な仲になりました。
 弘仁元年(810年)空海は、嵯峨天皇の命を受け、東大寺の別当を任じられました。 鎮護国家の為に建立され、奈良時代より仏教の中心であった東大寺の事実上の頂点の役職を任命されたのです。 これは、他に類を見ないほどのできごとでした。
 しかし、都では平城上皇が天皇時代より寵愛していた藤原薬子(ふじわらのくすこ)が平城天皇とともに平城京へと移動しました。  本来であれば平城上皇が長く天皇の位に就いていれば、藤原薬子(ふじわらのくすこ)は大きな権力を持てるはずだったのです。 そして、一方的に平城京への遷都の詔勅を平城上皇が出しました。 これにより嵯峨天皇と平城上皇が対立し争うことになりましたが、後に嵯峨天皇が勝利を収め「薬子の乱」は失敗に終わりました。
 この「薬子の乱」で乱れた国家を鎮めるため、空海は嵯峨天皇に鎮護国家のための加持祈祷の申し出を行いました。 許しを得た空海は、高雄山寺に戻り、総力をあげて鎮護国家の秘法を修しました。 すると、乱れた国家は安定を取り戻し、空海はその名を広めることになりました。

 無事に「薬子の乱」を鎮めた空海は、ますます嵯峨天皇の信頼を得ることになりました。 翌年弘仁2年(811年)には長岡京の乙訓寺の別当を命じられ高雄山寺から移りました。
 この乙訓寺は、聖徳太子開山と伝えられている寺ですが、桓武天皇の弟である早良親王(さわらしんのう)が無実の罪で幽閉された寺でもあり、当時は曰く付きの寺でした。 表向きは高雄山寺に比べて利便性が高いことが考えられますが、空海の力をもって早良親王の祟りを鎮めたいという朝廷の思いもあったのではないかと言われています。
 しかし、空海は1年足らずで辞表を書き、高雄山寺へ戻りました。 この間も空海と嵯峨天皇は深い交友関係がありました。
 乙訓寺から高雄山寺へ戻る前々日、空海は乙訓寺で運命の再会をしていました。 それは、最澄との再会でした。 8年前に同じ遣唐使船に乗った最澄ですが、すでに国家が認める南都六宗(倶舎宗・華厳宗・三論宗・成実宗・法相宗・律宗)と天台宗の開祖として非常に高い地位にあり、密教の第一人者として国家に認められている僧侶でした。
 内容は、空海に弟子入りをし、空海が伝えた密教のすべてを学ぶことにあったと言われています。 しかし、乙訓寺を出る直前だったため、灌頂は高雄山寺で行われることになりました。
 弘仁3年(812年)11月15日に空海は初めて金剛界結縁灌頂を最澄・和気真綱(わけのまつな)・和気仲世(わけのなかよ)・美濃種人(みののたねひと)の4名に授けました。 続いて12月14日に空海は胎蔵界結縁灌頂を授けましたが、この時はこの灌頂のことを聞いた多くの僧侶などが訪れて140名という人数になりました。
 ただ、ここで空海が授けた灌頂は、結縁灌頂と伝えられています。 この結縁灌頂(けちえんかんじょう)とは、真言密教のすべてを授ける伝法灌頂(でんぽうかんじょう)ではありません。 これは、最澄が希望していた灌頂ではなかったのです。

 還学生(げんがくしょう)として唐に渡った最澄は、1年という時間しかなく、もっと学ぶべきことがあったのですが、時間の関係上それが叶わなかったのです。
 しかし、空海より伝法灌頂を授かるには、最低でも3年以上の月日がかかることを告げられ、最澄は自分が伝法灌頂を授かることを諦めました。 最澄は、天台宗の長者として比叡山を治めなければならず、時間がとれませんでした。 そこで、自分の弟子である泰範(たいはん)を空海の弟子として預けることにしたのです。
 しかし、泰範はもともと非常に優秀だったことに加え、空海の元で真言密教の多くを吸収していきました。 真言密教を学んだ泰範は最澄の元には戻らず、そのまま空海の弟子となりました。 また、高雄山寺には多くの経典や書物などがありましたが、空海は最澄に『理趣釈経』(りしゅしゃくきょう)という経典の注釈書の貸出を拒みました。 これらのことが重なり、空海と最澄は次第に交流が断絶していきました。
 この頃から空海は、真言密教の根本となる道場を探していました。 唐の明州より遥か彼方へと飛び立った「三鈷杵」のことも気になっていました。
 空海が真言密教の根本となる道場を探しに大和国を歩いていたところ、2匹の犬を連れた狩人に会いました。 実はこの狩人は「狩場明神」(=高野明神)とされ高野山の地主神だったのです。 空海はこの狩場明神に松の木にかかった「三鈷杵」の場所を教えてもらいました。 また、この「三鈷杵」の場所へ向かう途中でひとりの女性にあいました。 この女性は「丹生明神」とされ、空海に高野山を譲った地主神でした。
 空海は、この高野山を真言密教の根本道場にしたいと願い、高野山を賜るべく嵯峨天皇に請願を出しました。 この審議にあたったのは、中納言・藤原葛野麻呂(かどのまろ)でした。 この藤原葛野麻呂(かどのまろ)は空海と同じ遣唐使船に乗船した人物であり、空海の功績を深く理解して、空海の請願は認められることになりました。
 高野山への道が開けたのです。

 ただ、朝廷の厚い信頼を得ていた空海は、簡単に都を離れ高野山建立に専念するわけにはいきませんでした。 そこで、実慧と泰範を中心として弟子たちを派遣しました。
 弘仁10年(819年)空海は高野山の七里四方に結界を結び、本格的に高野山で壇上伽藍の建立に着手することになりました。 しかし、空海は高野山に留まることができず、中心となったのは空海の弟子たちでした。
 空海は、弘仁12年(821年)には満濃池の別当に命じられました。 満濃池は、当時は最大規模のため池であり、弘仁9年(818年)に決壊してから人手不足も重なり、修復には困難を極めていました。 しかし、不思議と空海が讃岐国(現在の香川県)に入ると知ると人々は集まり、困難と言われた工事をわずか3カ月で終了してしまいました。
 満濃池の修復後、空海は時間を見つけては唐より持ち帰った密教法具などの整理をしつつ、少しずつ自身が体得した真言密教の教えを文章に残そうとしていました。
 一方、高野山での壇上伽藍の建立は、弟子たちを中心に順調に行われていました。 しかし、天長2年(825年)空海の生涯にとって最も悲しい出来事が起こりました。 それは、弟子である智泉が37歳という若さで高野山にて亡くなったことでした。
 空海にとって智泉は甥にあたり、空海が入唐する前から共に山岳修行なども行い、長い時間一緒にいた大切な弟子でした。 空海は悲しみのあまり 『亡弟子智泉が為の達しん(しん=口へんに親)の文』 として次のような文を残しました。
  哀しい哉(かな) 哀しい哉(かな)
  哀れがの中の哀れなり
  悲しい哉 悲しい哉
  悲しみの中の悲しみなり
  哀しい哉 哀しい哉 復(また)哀しい哉
  悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉

 空海は悲しさを文章に隠さず表しました。 そして、高野山の建立のために弟子たちが心血を注いでいることを再確認しました。
 この智泉の悲しみから空海は自身の最期についても考えるようになりました。

 最期を考え始めた空海は、できる限り多くの教えを残したいと思い、ますます文章に残すように励みました。 ただ、空海は自分のことに使える時間はそう多くなかったため、文章に残すには困難を極めましたが、時間を見つけては講義なども行いました。
 弘仁13年(822年)に空海は嵯峨天皇の勅命により東大寺に灌頂道場として真言院を建立しました。 そして、平城上皇に灌頂を授けたと伝えられています。 出家した平城上皇に東大寺で灌頂を授けたことは大いに意味があります。 東大寺という最高の寺院で、出家した兄である平城上皇に、自信が最も信頼する空海が灌頂を授けるという嵯峨天皇の「薬子の乱」以降の最大の配慮と考えることもできます。
 東大寺に灌頂道場を建立した空海でしたが、高野山の建立は困難の連続でした。 大きな理由が、官寺ではなかったため、政府からの資金援助はなかったのです。 加えて山奥ということもあり、空海の力をもってしても簡単にことは運びませんでした。
 すると弘仁14年(823年)に朝廷より都の官寺であった東寺を賜ることになりました。 確かに都から東大寺は遠く、高野山の建立が思ったように進んでいない状況から、これは大変ありがたい話でした。 空海はこの東寺を教王護国寺として密教寺院として伽藍を整えました。ここに、初めて密教寺院が完成したのです。
 空海はこの東寺に多くの真言僧侶を常住させると同時に、他宗の僧侶の常住を拒否しました。 今までの寺院は、他宗の僧侶であっても自由に寺院へ入り、そこで講義を受けることや行法などを学ぶことが一般的でした。 確かに最澄も高雄山寺において空海のもとで密教のすべてを学ぼうとしていました。
 しかし、空海が他宗の僧侶の常住を拒否したことには理由があります。 それは『御遺告』によれば「排他的な理由ではなく、真実の法を護るための手段である」と空海は記しています。 空海は、自身のすべての教えをしっかりとした形で後世に残すことをこの時点で考えていたのです。

 同じく弘仁14年(823年)に朝廷では嵯峨天皇が異母弟の淳和天皇へ譲位し、上皇となりましたが、朝廷での空海の信頼は変わることはありませんでした。
 淳和天皇が即位した天長元年(824年)2月、都では大干ばつが人々を苦しませていました。 多くの寺社で雨乞いの祈祷が行われましたが、雨は降りませんでした。 淳和天皇は空海に勅命を出し、空海は神泉苑において雨乞いの為の「請雨経法」を行ったところたちまち3日間雨が降り続きました。 これにより、淳和天皇からも絶大な信頼を得ることとなりました。
 天長5年(828年)空海は東寺の東隣に「綜芸種智院」という教育機関を設立しました。 これは、高官向けではなく庶民向けの教育機関で、日本の歴史における初めての学校でした。 これは、空海の次世代を担う真言僧侶の可能性を発見することや、高野山建立にあたり多くの庶民からの寄進に心を打たれその恩返しともされています。 なぜなら、この「綜芸種智院」は庶民向けのため授業料はありませんでした。
 空海は天長4年(827年)より大僧都の位を得ていましたが、体調を理由に天長8年(831年)に大僧都を辞するよう朝廷にお願いしましたが、勅命により辞めることができませんでした。 しかし、空海は高野山に入り、穀物を絶ち禅定に入る日々を送るようになりました。
 承和元年(834年)仁明天皇が即位した年の12月19日に空海は、宮中にて行われている祈祷に密教の祈祷を行いたいと上奏しました。 宮中では正月の1~7日は神式による御祈祷を行い8~14日は仏式による御祈祷が行われていました。 この仏式の日時に合わせて密教の御祈祷も行いたいと申し出たのです。 これは「後七日御修法」(ごしちにみしほ)と呼ばれ、承和2年(835年)に空海が行ってから現代でも東寺にて引き継がれている御祈祷です。 そして3月15日に空海は『御遺告』(ごゆいごう)空海は入定しました。
 そして、空海が入定してから86年後の延喜21年(921年)に醍醐天皇から「弘法大師」の諡号をいただき、以降現在に至るまで「弘法大師」=「お大師さま」と慕われ、我々真言宗寺院はその教えを絶やすことなく引き継いでいます。

合掌

興教大師

 興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)についてお話をしていきたいと思います。
 私たちは空海や弘法大師というと、教科書でも学習したことがあると思いますので、多少なりとも空海については、真言宗・高野山・書道などのキーワードを連想することが可能だと思います。 しかし、興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)と言われても、正直なところ「誰?」と思う方がほとんどだと思います。
 ただ、ここ泉蔵院でもご法事や施餓鬼供養や彼岸供養などのご法要の時には、必ず「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)とお大師さまのご法号をお唱えした後に「南無興教大師」(なむこうぎょうだいし)とお唱えをしますので、よくよく考えれば耳にしたことがあると思います。
 この興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)は、私たち真言宗智山派だけでなく、真言宗豊山派と新義真言宗は、真言宗の中興の祖といわれた興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)の教えも継承しています。
 今回からはこの興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)がどのような人物で、なぜ真言宗の中興の祖と呼ばれているのかお話をしていきたいと思います。
 嘉保2年(1095年)6月17日に九州肥前の国(現在の佐賀県)藤津荘に生まれました。 父は追捕使の伊佐平次兼元(いさへいじかねもと)で弥千歳(やちとせ)と名付けられました。
 伊佐家では、父伊佐平次兼元(いさへいじかねもと)も含め、8歳ごろになると近くの蓮厳院(れんごんいん)にて手習いをするのが習わしでした。 これに従い、弥千歳(やちとせ)も蓮厳院(れんごんいん)にて手習いを始めました。
 ただ、残念なことに弥千歳(やちとせ)が10歳になった頃、父の伊佐平次兼元(いさへいじかねもと)が亡くなりました。 すると母が出家をすることになり、弥千歳(やちとせ)はそのまま蓮厳院(れんごんいん)に預けられることになりました。
 ここから興教大師覚鑁(こうぎょうだいしかくばん)の仏の道が始まるのです。

 蓮厳院(れんごんいん)に預けられた弥千歳(やちとせ)は、日々の生活はもちろんよく勉学にも励み、蓮厳院(れんごんいん)の覚成(かくじょう)からも一目置かれていました。
 弥千歳(やちとせ)が蓮厳院(れんごんいん)に来て3年がたったある日のこと、覚成(かくじょう)から京の都の仁和寺(にんなじ)より慶照(けいしょう)という僧侶がここ蓮厳院(れんごんいん)まで来ることを告げられました。
 これは弥千歳(やちとせ)にとっては大きなチャンスでした。 京の都では、蓮厳院(れんごんいん)では学べないことも学ぶことができ、奈良へ行き、多くの学問も取得することができるからです。
 そこで、覚成(かくじょう)は仁和寺成就院(にんなじじょうじゅいん)の住職である寛助(かんじょ)という僧侶の元へ弥千歳(やちとせ)を預けることにしました。 これは弥千歳(やちとせ)が13歳の時でした。
 天仁元年(1,108年)仁和寺(にんなじ)に来て1年がたったある日、14歳の弥千歳(やちとせ)は寛助(かんじょ)から許しを得て奈良の興福寺(こうふくじ)にて仏教の基礎となる唯識論(ゆいしきろん)と倶舎論(くしゃろん)を学びました。
 弘法大師空海が残した真言密教は、大変奥が深く難しいものでしたので、内容を理解するためには仏教を基礎から学ぶ必要があったのです。 ちなみに、非常に簡単に表すと、唯識論(ゆいしきろん)というのは仏教学的な心理学のようなもので、倶舎論(くしゃろん)というのは仏教学的な世界観のようなものです。
 弥千歳(やちとせ)は寝る間も惜しみ日々勉学に励むことによって、わずか2年間で唯識論(ゆいしきろん)と倶舎論(くしゃろん)を習得しました。
 仏教の基礎を習得した弥千歳(やちとせ)は、天永元年(1,110年)に仁和寺成就院(にんなじじょうじゅいん)へ戻り、寛助(かんじょ)の元、出家にあたる得度式を行うことになりました。 この時弥千歳(やちとせ)は16歳でしたが、ようやく僧侶としての第一歩を踏み出したのです。

 無事に出家をして僧侶としての第一歩を踏み出した弥千歳(やちとせ)は、再び奈良へ向かい、東大寺にて三論を学びました。 これは、弘法大師空海の『御遺告』(ごゆいごう)の中で三論(さんろん)と法相(ほっそう)を学ぶように示されているためです。 ちなみに、法相(ほっそう)に関しては、すでに興福寺で唯識論(ゆいしきろん)と倶舎論(くしゃろん)を通して習得しています。
 三論に関してもたゆまぬ努力を重ね、わずか2年間で習得した弥千歳(やちとせ)は再び寛助(かんじょ)の元へ戻りました。 これは、真言僧侶になるためには必ず行わなければならない修行を師僧である寛助(かんじょ)から授けてもらうためです。
 修行を始めて2年が過ぎ、弥千歳(やちとせ)が18歳の時にこの修行は成満しました。 そして、弥千歳(やちとせ)が20歳の時に、東大寺の戒壇院(かいだんいん)にて具足戒(ぐそくかい)を受け、国からも正式な僧侶として認められました。
 弘法大師空海の教えに従い、三論と法相(ほっそう)を学ぶことで仏教の基礎を習得し、師僧である寛助(かんじょ)の元で真言僧侶としての修行を完成し、東大寺にて正式に国に認められることにより完全な僧侶となった弥千歳(やちとせ)は、名前を覚鑁(かくばん)と改めました。
 永久二年(1114年)に覚鑁(かくばん)は、高野山へ登る決心をしました。 しかし、苦労をしてたどり着いた高野山は覚鑁(かくばん)の想像以上に荒廃がすすみ、弘法大師空海の時代とは様相が違っていました。
 ただ、覚鑁(かくばん)には高野山を復興させたいという強い思いがありました。 それは、興福寺にて勉学に励んでいる頃「高野山を復興せよ」という春日大明神の夢のお告げがあったためです。
 高野山に登った覚鑁(かくばん)は、最初に往生院(おうじょういん)の阿波上人浄心房青蓮(あわのしょうにんじょうしんぼうしょうれん)の元に身を寄せました。
 ここから覚鑁(かくばん)の高野山での生活が始まったのです。

 往生院(おうじょういん)に身を寄せた覚鑁(かくばん)は、翌年に五室の隠岐上人明寂(ごむろのおきしょうにんみょうじゃく)のもとで学びました。
 五室の隠岐上人明寂(ごむろのおきしょうにんみょうじゃく)のもとで学びつつ、覚鑁(かくばん)は高野山だけでなく、京都や奈良を中心としながら修行に励みました。 その修行の中には、弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が行った荒行である「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)もありました。 少しでも弘法大師空海に近づきたいという一心で、覚鑁(かくばん)は1度のみならず何度も「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)を行いました。
 そして、保安4年(1,123年)8月17日に9回目の「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)で覚鑁(かくばん)は成満しました。 この「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)にて得たものは、弘法大師空海にはない「浄土思想」や「往生思想」も含まれていたと伝えられています。 これは、長い修行の中で、覚鑁(かくばん)が多くの人々と出会ったことで、大きな影響を受けたのでしょう。
 この時代は、末法思想(まっぽうしそう)が世の中の中心にありました。 末法思想とは、簡単に言ってしまえば、仏法が正しく伝わらず衰退し、世の中が乱れるという思想です。 この時代は、平安中期から末期の時代が大きく変わろうとしている時でもあり、人々の生活が不安定だったため、不安に拍車をかけていました。
 この「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)を行い、修行を重ねている間に、覚鑁(かくばん)は伝法灌頂(でんぽかんじょう)を受けていました。 伝法灌頂(でんぽかんじょう)とは、弘法大師空海より伝わる真言密教のすべてを授かる秘法です。 27歳の時に、覚鑁(かくばん)の恩師である寛助(かんじょ)より授かり、真言僧侶としても「阿闍梨」(あじゃり)という最高位を授かりました。

 「虚空蔵菩薩求聞持法」(こくうぞうぼさつぐもんじほう)を成満して、真言僧侶として「阿闍梨」(あじゃり)の位を得て、いよいよ覚鑁(かくばん)の志は高いものとなりました。 また、覚鑁(かくばん)の名前も次第に広まり、多くの僧侶や信者が覚鑁(かくばん)のもとへと集まってきました。 その中の紀州の土豪である平為里(たいらのためさと)という人物からは、のちの根来寺となる紀州の岩出荘という荘園も寄進されました。
 高野山の再興として覚鑁(かくばん)がまず目指したのは、弘法大師空海の教えの復興でした。 弘法大師空海から受け継いでいる真言密教の教えを今一度学び直そうとしたのです。 そこで、弘法大師空海の甥で弟子である高野山第二世真然(しんぜん)大徳が行った「伝法会」(でんぽうえ)の復興を目指していたのですが、荒廃した高野山にはそのお堂も資金もありませんでした。
 ただ、大治5年(1,130年)に白河天皇の供養のために聖恵親王(しょうけいしんのう)が高野山へ登ることが分かっていましたので、覚鑁(かくばん)は青蓮(しょうれん)や明寂(みょうじゃく)の助けをもらい、上奏することができました。
 覚鑁(かくばん)の強い願いは聖恵親王(しょうけいしんのう)より鳥羽上皇へと上奏され、正式に朝廷より許可を得て、長承元年(1,132年)に高野山に大伝法院(だいでんぼういん)と密厳院(みつごんいん)が建立されました。 10月に行われた大伝法院(だいでんぼういん)の落慶法要には鳥羽上皇も臨幸され、盛大な法要を行いました。 そして、念願の「伝法会」(でんぽうえ)を再興することができました。覚鑁(かくばん)が38歳の時でした。
 その後、長承3年(1,134年)には、東寺の長者とともに高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)の座主・大伝法院(だいでんぼういん)の座主となり、高野山の再興がいよいよ現実味を帯びてきました。 この時覚鑁(かくばん)は40歳でした。

 しかしながら、この覚鑁(かくばん)による高野山の再興を面白く思ってない僧侶たちも高野山にはいたのです。 もともと覚鑁(かくばん)は高野山の出身ではなく、地方から京都の仁和寺に入り、高野山へと入ってきたため、高野山の僧侶から見れば「よそ者」と思われていました。それが、金剛峰寺(こんごうぶじ)の座主の職に就くということは、いくら覚鑁(かくばん)が弘法大師空海の「伝法会」(でんぽうえ)を再興するほどの功績を残しても許せなかったのです。
 保延元年(1135年)ついに良禅(りょうぜん)を代表とする高野山の僧侶と東寺の僧侶が結び付き、朝廷に大伝法院を横暴として訴えようとする動きが活発になりました。 これにより、高野山は混沌として、現実味を帯びてきたはずの再興は難しくなりました。
 そこで、覚鑁(かくばん)は、高野山での争いを避けるため高野山金剛峰寺(こんごうぶじ)の座主・大伝法院(だいでんぼういん)の座主を真誉(しんよ)に譲りました。 座主の職を辞任することにより、争いを回避しようとしたのです。そして、自らは密厳院に籠ることにしました。
 覚鑁(かくばん)は密厳院にて「千日無言の行」を始めました。 この「千日無言の行」とは読んで字のごとく「千日の間まったく話さない」というとても想像を絶するような荒行です。 この「千日無言の行」の間に覚鑁(かくばん)は有名な『密厳院発露懺悔文』(みつごんいんほつろさんげのもん)を記したとされています。
 ただ残念なことに、覚鑁(かくばん)がひっそりと密厳院にて「千日無言の行」を行っている間も高野山での混沌とした状態は変わることがありませんでした。 そして、ついに緊張の糸が切れることとなりました。
 良禅(りょうぜん)を代表とする高野山の僧侶たちが、暴徒として覚鑁(かくばん)を切りつけようと密厳院まで襲ってきたのです。

 密厳院を襲ってきた僧侶たちは覚鑁(かくばん)を探しました。 しかし、覚鑁(かくばんの)姿は見えません。 そこにいたのは2体の不動明王でした。 どちらが覚鑁(かくばん)かわからない僧侶たちは、結果として2体の不動明王に対して錐で膝を突きました。 すると大変不思議なことに2体の不動明王どちらからも鮮血が流れてきたのです。僧侶たちはこの様子に恐れおののき密厳院から逃げるように去っていきました。
 この時に覚鑁(かくばん)を守った不動明王は「錐鑽不動」(きりもみふどう)と呼ばれ、現在も多くの信仰と共に根来山に大切に安置されています。
 難を逃れた覚鑁(かくばん)でしたが、これ以上高野山での弘法大師空海の再興を不可能と感じました。 覚鑁(かくばん)は同じ弘法大師空海の教えを継承する身分でありながら、このような争いがおこったことにひどく落胆していたのです。
 そこで、覚鑁(かくばん)は永治元年(1141年)に平為里(たいらのためさと)より寄進された根来の地へと移る決心をしました。 ここに堂宇を建立して、この地で弘法大師空海の教えを再興しようとしたのです。 まず行ったのは「伝法会」(でんぽえ)です。 根来の地でも覚鑁(かくばん)の教えを求め、多くの弟子たちが覚鑁(かくばん)の「伝法会」(でんぽえ)に参加をしました。
 根来に移った覚鑁(かくばん)でしたが、それでも鳥羽上皇の信頼は変わることはありませんでした。 根来の地でも多くの弟子に対し弘法大師空海の教えを再興しようと尽力していましたが、その時は来てしまいました。
 高野山から根来に移って3年目の康治2年(1143年)12月12日、覚鑁(かくばん)は根来の円明寺にて静かに座り入滅しました。 この時、覚鑁(かくばん)は49歳という若さでした。
 江戸時代の元禄3年(1690年)に東山天皇より覚鑁(かくばん)は「興教大師」(こうぎょうだいし)の諡号をいただき、泉蔵院だけでなく、すべての真言宗智山派・真言宗豊山派・新義真言宗は弘法大師の教えだけでなく、興教大師の教えも絶やすことなく引き継いでいます。

合掌

真言宗とは

 真言宗についてお話をしたいと思います。 お釈迦さまより始まった仏教が、弘法大師空海・興教大師覚鑁と引き継がれていきました。 そして、真言宗として現在にもその教えは大切に継承されています。 では、改めて真言宗とはどのような宗派なのか少しお話をしたいと思います。
 まず、真言宗のお寺のご本尊さまに決まりはありません。 例えば、浄土宗なら阿弥陀如来が必ずご本尊さまと決められておりますが、真言宗ではその限りではありません。
 なぜなら、真言宗では、すべての仏さまが大日如来と同体であり、どの仏さまを拝んでも大日如来を拝むことになるのです。 これを真言宗では「一門即普門」と言います。
 もちろん泉蔵院もご本尊さまは不動明王ですが、他にも愛染明王・地蔵菩薩・大聖歓喜天のように多くの仏さまが安置されています。 しかし、真言宗ではこれは特別なことではないのです。
 ただ、この本尊さまが決まっていないことにより、ある疑問が浮かんできます。 それは、仏さまのお参りの仕方です。
 浄土宗など阿弥陀如来を教えの中心としているならば「南無阿弥陀仏」とお唱えし、日蓮宗では日蓮上人の教えに基づき「南無妙法蓮華経」とお唱えします。 では、真言宗ではどうでしょう。
 本来でしたら、その仏さまのご真言をお唱えするのが最もよいのですが、真言と言われましても耳になじみにない難しい呪文のようなもののため、それぞれの仏さまのご真言を暗記するなどとても無理な話です。
 しかし、先ほどお話したようにどの仏さまを拝んでも大日如来を拝んだことになりますので、大日如来のご真言がお唱えできればよいのですが、やはり真言は難しいものです。
 そういう時は「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)という弘法大師空海のご法号をお唱えください。
 大日如来とすべての仏さまが同じであるなら、大日如来と弘法大師空海は同じであるため、すべての仏さまと弘法大師空海も同じなのです。
 真言宗のお寺にお参りの際は、どのご本尊さまでも「南無大師遍照金剛」とお唱えの上お手合わせください。

 真言宗といえば大切な教えとして「即身成仏」というキーワードを思い浮かべる方も多いと思います。 これは、弘法大師空海の教えであり、他の宗派とは違うものだからです。
 仏教そのものはお釈迦さまが、現世に表れてご説法したものです。 しかし、このご説法を考えてみると、お釈迦さまという存在が、我々人間に対して「言葉」というものを用いたものです。 そのため、経験のある人も多いと思いますが、思ったことを言葉にして相手に伝えることや、相手の真意を言葉から完全に理解することはとても難しいことなのです。
 ちなみにお釈迦さまのご説法は、相手の能力に応じてわかりやすく教えを説いた「対機説法」と伝えられていますので、ひょっとしたら全ての教えを残していないかもしれないのです。
 しかし、真言宗では、根本となる仏さまの大日如来が、分け隔てなくご説法をして仏教の真理そのものを説いています。 しかし、大日如来は真理そのものであるため、言葉を用いてご説法をしているわけではないのです。 では、どうしたらこの大日如来の真理を悟ることができるのでしょうか。 それは、私たちも仏さまになればよいのです。 なぜなら、すべての仏さまが大日如来と同体なので、私たちが仏さまになれば大日如来の真理を得ることができるのです。
 これは、来世で仏さまになればよいという考え方でなく、今の自分がすでに仏であると気が付けばよいのです。
 そうすると、厳しい修行や出家が必要と考える人もいるかもしれません。 しかし、厳しい修行や出家をしなくても仏さまになることはできます。 それは、仏さまと心をひとつにすればよいのです。 言い換えれば仏さまを感じることができればよいのです。
 その手段として、真言宗智山派では「写経」や「写仏」や「阿字観」などを薦めています。 例えば「阿字観」を通して心の中がすっきりとした晴れやかな状態になれば、きっと仏さまが心の中に現れたということでしょう。 つまり、仏さまと心がひとつになれたということです。
 泉蔵院でも多くの仏さまを感じてもらえる行事が年間を通してあります。 ぜひ、足を運んでみてください。

合掌

おわりに

 ここまで、仏教の歴史や偉人を中心に少しでも仏教のことや真言宗のことをお話してきましたが、最後に仏教についてお話したいと思います。
 聖徳太子時代から日本でも仏教が重宝されるようになり、聖武天皇の頃には、東大寺を中心として全国に寺院が建立されて、広く仏教が世間に知れ渡りました。 記録の残る日本の歴史は仏教の歴史でもあるのです。
 その影響もあり『今昔物語集』には、観音菩薩や地蔵菩薩に関する話も大変多く残されています。 その内容は、観音菩薩や地蔵菩薩がこの世に現れて、私たちを救い導いてくれる話がほとんどです。 つまり、それだけ仏教や仏さまという存在があこがれだけでなく、身近にあったと考えることもできるのです。
 仏教というと、どうしてもイメージとして「お葬式」と現代では考えられがちですが、決してそれだけではなかったのです。 困っている人がいれば身近に現れて手を差し伸べてくれる存在であり、今を生きている私たちを導いてくれるのが仏さまなのです。
 また、どうしても最近の世間のイメージでは「仏教」も含めて「宗教」というとよいイメージを持たない人も多くいるのが現実です。 しかし、仏教は時代と融合して長い歴史を重ねてきました。 例えば、泉蔵院だけで考えても、本堂でコンサートなど昔では考えられなかったかもしれません。
 これからも仏教は時代とともになくなることはないでしょう。 それは、必要なものだからです。 弘法大師空海の教えに次のような言葉があります。
 夫れ仏法は遥かにあらず、心中にして即ち近し
 仏さまはいつも身近にいるのです。 しかし、日々の便利な生活や忙しい毎日の中で、時に感謝の気持ちを忘れ、怠惰な気持ちを起こし、怒りに身を任せれば仏さまは感じることができません。 ただ、いつも心の中にあるのです。
 仏教や仏さまはいつも身近にいます。 難しいことはありません。 いつも穏やかな気持ちで心に仏さまを感じればよいのです。
 泉蔵院はいつも仏さまとともにあなたの心の中にあります。 今までもこれからも。

合掌