阿弥陀如来を新たに造立

 この度、阿弥陀如来を新たに造立し、本堂にお祀(まつ)りするべく発願いたしました。当山の歴史を紐解(ひもと)くと「御幣山阿弥陀寺泉蔵院」の名のとおり元々は阿弥陀如来をご本尊としていたとされることより、いつかは阿弥陀如来を新しく造りお祀りしたいと願っておりました。
 今回のこの発願にはこの歴史的な意味とは別に更に2つの意味があります。まず1つには聖天さまの信仰を通じての意味があります。それは聖天さまの本地仏は十一面観音であり、その十一面観音の本地は阿弥陀如来であると思うからです。
 観世音菩薩は阿弥陀如来の分身であり、化身であると云われており、阿弥陀如来の慈悲の現れであるとも云われています。「悲華経」というお経には「阿弥陀如来が出家される前に王様だった頃、沢山の子供があり、その長男が後に出家して観世音菩薩となった」と説かれています。
 阿弥陀如来が出家して仏の悟りを開かれた後、次に悟りを開くのが観世音菩薩だとも説かれ多くの経典に阿弥陀如来の脇士であると説かれています。
 密教の経典にも「無量寿如来は諸の相好を具し光明熾盛なり。仏の右辺に於て観世音菩薩あり」と説かれています。
 これらより観世音菩薩は阿弥陀如来の本願を勧(すす)め、阿弥陀如来の本願を求める人を守る菩薩ということができるのではないか。観世音菩薩の説く法は「全ての人を必ず絶対の幸福に導く」という阿弥陀如来の本願であるのではないかと。
 現世利益を求める聖天信仰が十一面観音信仰に昇華され、そして行き着く先は観音の本地たる仏の世界、即ち極楽浄土へと導かれていく。そんな信仰の在(あ)り方を考え阿弥陀如来を造立したいと思ったのです。
 十一面観音の四種果報には命終ののち、極楽に生ずるとあります。
そして2つ目の発願の理由は。現在、当山のご本尊は不動明王です。不動明王はその真言のとおり「我々の煩悩を砕破(さいは)する」仏であり、煩悩の雲より我々を救い導いてくれる仏さまであります。
 私は本堂須(しゅ)弥壇(みだん)中央にお祀りされているご本尊不動明王にご法事等の折りには亡者の煩悩を払い、み魂(たま)を清らかにして頂きたいと念じます。そして清められた亡者のみ魂を密厳の仏国土(極楽浄土)へとお送りするべく本尊脇士に阿弥陀如来をお祀りしたいと思ったのです。
 生きている間は「諸悪(しょあく)莫作(まくさ)、諸善(しゅぜん)奉行(ぶぎょう)」、少しでも悪いことを遠ざけ良いことに励む、そして、最期は「煩悩を離れ自分を祝福し、阿弥陀如来に導かれていく」。このような思いをもって阿弥陀如来を造立したいと考えたのであります。
 仏教においては「人は永遠の生命を旅するものであり、亡くなった後も次の場面(ステージ)がある」という来世への信仰(輪廻転生)は大変、大事なことです。
 この考えを形に表わしたいと思ったのが本尊不動明王、脇士阿弥陀如来というものです。
 これを書いているのは令和5年9月ですが、阿弥陀如来を京都の仏師に発注したのは3月です。この時、仏像の大きさや尊容等を打合せしたのですが、驚いたのはお祀りする場所を確認し、本尊さまより大きくなってはいけないと考えサイズを測(はか)り出したところ、何と13年程前に造立した聖天堂の十一面観音と全く同サイズとなったのです。又、今回、お願いした仏師も不動堂にお祀りした不動明王、愛染明王、弘法大師を制作した仏師ではなく、この十一面観音を彫った仏師であり、聖天さま~十一面観音~阿弥陀如来というライン(つながり)を感じました。聖天さまを通して観音を拝み、観音を通して阿弥陀を拝むという。
 完成は来年9月の予定ですが、途中の経過報告ができたらと思います。

合掌
2023年09月20日